こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
今回は「思想カテゴリー」にて投稿したいと思います。
「正負の法則」について、少し書きたいと思いました。
昭和初期の、古い文献の中で見かけた言葉です。いったい、いつ頃から使われていた言葉であるかはわかりませんが、ネット上でもよく見かける言葉です。
つまり、良いことの後には、悪いことが起こり、その逆もあり、その繰り返しで世の中の出来事は成り立っているとする考え方です。
ただし、こうした言葉をもって、目に写る事象を完結しては、いささか単純であると思う訳です。
私自身、こうした「法則的」な言葉は好きではありません。
確かに、万物は常に変化を続ける動作の中にあります。
しかし、常に「正負の事柄」が巡り続けるという事は、つまりは心理の中に、そうした「モデル」である想定した現実感を持っていると言う事です。
私が、このブログにおきまして、「大祓詞」という投稿をしています。
その調査の文献中にも「正負の法則」という言葉を見かけました。
その文献は、昭和初期の物でした。
つまり、「祓う」という行程が描かれているのですが、そこで「正負の法則」に反する認識、悪が巡るなら、待たずに「払う」を理解できたのです。
日本人は今でもそうですが、清潔好きな民族の部類にあると思います。
穢れを、感覚的に祓う行動があるのです。
手を洗い、口をすすぎ、体を洗い、実は、こうした行動は古代より受け継がれているようです。
「正負の法則」とは、「良いことの後には、悪いことが起こり」という、この悪い部分を認める部分がございます。
しかし、それではよろしくない訳です。
昔の方は、こうした、「良いことの後には、悪いことが起こり」という事態が起こるのであれば、この「悪い部分」を「お祓い」により「祓う」という行動をしていたのです。
そうすれば、常に「良い事」のみを生活の中に体現できる訳です。
こうした「新鮮な息吹」を常に得るために、日本人の感覚の中には、「穢れ」を感覚的に祓う行動があるのです。
つまり、「新鮮力」という息吹を、常に身にまとう事で、「正負の法則」における運命的な法則、そして「悪い部分」を削除していたのです。
今回、私が「正負の法則」について投稿しようとした切欠は、先月に「松蔭神社」へご参拝した事があります。
そこで、色々な意識や想いが巡りました。
特に感じた事は、「無駄な事を考えない」という事でした。
「正負の法則」とは、それは言葉として救われる面を持っています。
「良いことの後には、悪いことが起こり」と言われれば、運命に納得してしまいます。
しかし、その納得は、運命に対して「停滞」を生じさせます。
何故なら、「悪い部分」が巡っているのに、それを取り除こうとせずに、そのまま立ち止まって受け入れてしまうからです。
「正負の法則」を正しいと思い込み、「悪い部分」を想定して受け入れてしまっては、その間の人生が無駄になります。
「松蔭神社」で教えられました「無駄な事を考えない」とは、こうした「正負の法則」と言った「法則的」な事柄に囚われないで過ごす事も含まれると思いました。
詳しくは以下に、投稿を行いました。
「松陰神社にご参拝をさせて頂きました。 」
http://mahakara.blogspot.jp/2015/05/blog-post.html
あらゆる様々な事柄は、都合よく私達の心を捉えます。
確かに、そうした事柄は正解ではあります。
故に人間は動きが取れなくなるのです。
「正負の法則」は、一見すれば当たり前の事柄のように感じます。
それは、都合よく私達の心を捉えます。
しかし、これは「良く生きる為」に必要な知識でしょうか。
私たちが「良く生きる為」に必要な事は、「正負の法則」的な事柄に心を奪われず、常に、キレイ好きである事、習慣的に「穢れ」に気付いて「払う」という、古来よりの意識が大切です。
そして、常に「新鮮力」という息吹を、常に身にまとっている事です。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
興味深く拝読させて頂いております。
返信削除失礼ですが共感を得ております。誠にありがとうございます。
貴殿は 馬鹿な思想者 ではないと確信致しております。
引き続きよろしくお願いします。
伊勢屋廣平様
返信削除コメントを頂き有難うございます。
かなり偏った文面も御座いまが、どうぞ宜しくお願い致します。