こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
今回は「日記カテゴリー」にて投稿したいと思います。
完全な私の俗語ですが、「日本的家庭社会」について、少し書きたいと思いました。
これは、どの家庭にも絶対的にある事実ではないと思いますが、書き留めようと思いました。
今日、電車にて、母親に怒られている子供を見かけました。
子供は水泳をしているようで、今日は進級試験?に落ちてしまったようでした。
私が話を横で聞いていると、とても子供の事を思っているように感じ得ません。
その子供は、プレート?をかじっていて、先生に怒られたそうです。
そして、○○君は出来て、どうして出来ないの?
やる気が無いなら、もう止めてしまいなさい。
その子供は、自動的と言いましょうか、努力しますと母親に答えていました。
私には、その子があまりにも素直な心を持っている事に感動しました。
非常に残念な事ですが、母親よりも子供の方が優れています。
子供は、母親のストレスをかばったのです。
何より、プレート?をかじっている行動は、ストレスを外面に現している心的な証拠です。
そうした外からのストレスを無意識的に現していても、母親の心にある社会的な常識は、子供のサインを妨げているのです。
私の俗語で「日本的家庭社会」と題名にしましたこの言葉は、元々は「カレル・ヴァン・ウォルフレン」氏の著書である、「人間を幸福にしない日本というシステム」という中に書かれていた一部の内容を表しています。
その内容は大きく取り上げてはいませんでしたが、つまりはこうです。
日本人の家庭は江戸時代を見ると「殿様」の下に「家庭」がありました。
その「家庭」は、武家社会の中の1つであり、常に殿様の支配下にあります。
故に、自由に動くことは出来ずに、命令あれば切腹をする事になるのです。
「家庭」の中に、社会が入り込んでいるのです。
もしかしたら、電車で見かけた母親にしてみれば、社会の中に「家庭」があるのだから、「家庭」が社会的な一員である事は当たり前だと答えるかもしれません。
そこで、こんな動画を見つけました。
典型的な日本の家庭が描かれています。
私は、こうした光景が昔から恐怖でたまりません。
普通に見えますが、タブー的な言葉は一切話されません。
家庭内に社会的な常識が入り込んで、人間的な衝動や意識を限定します。
個人の状況について、明確な追求が行われます。
家庭内の人間は、それを意識的に演じるのです。
電車で見かけたプレート?をかじる子供のように、私も爪をかんでいました。
それはやがてエスカレートしてゆき、針で足の皮膚を破り始めたりとしてゆきました。だから、プレート?をかじっていた子供の気持がわかるのです。
私の父親は、この動画にある食卓の席で、学校での成績を聞き始めました。
やはり、電車で見かけた母親と同じように、他の子との比較を探りました。
塾に通わせているのだから、おかしいとよく言われました。
当時の私の感覚は、家庭が狂っていると思っていました。
しかし、その本質は、社会が家庭に入り込んで、本来は自由や安全を確保すべき家庭を、ないがしろにしていたのです。
きっと、典型的な日本の家庭が描かれた動画のとおりの日常が、ほとんどの家庭にあったはずです。
その光景を変に思わないのであれば、私は恐怖します。
まったく、個人の感性も閉じ込められ、自由や安全を確保できない状況です。
それが普通に感じ得るのは、元々の日本人社会が殿様を頂点に、そうであったからです。
まったく普通に、家庭内に社会が入りこんで、本来は休養すべき家庭内にまで社会の目が行き届いて、日常を支配しているのです。
これに従順すれば、さぞかし立派な社会人が誕生する事でしょう。
そうして、立派な方々で立派な社会が築かれる事でしょう。
しかしながら、失業、倒産、自殺、離婚、貧困、殺人等のニュースは絶えません。
安易に社会の目を飲み込んでは、楽になれないのです。
社会の目は社会の目であり、それを家庭に持ち込んではならないのが、私の主張です。
私のブログに書き込みを残して頂いた「伊勢屋廣平様」のブログです。
http://taibito916.blogspot.jp/2013/06/blog-post_7259.html
フィリピン国内の話ですが、読ませて頂いた限りでは、自殺者は無いようです。餓死者もいないようです。
ただ、失業率は高く、低収入者も多いようです。しかし、人間の生活をしています。
私は「喜び事」や「笑い話」程度であるなら、家庭に持ち込んでも良いと感じます。
しかし、個人を脅迫するような事態に陥ってはなりません。
気が付いていない方が多いかもしれませんが、社会と家庭は本来、区別すべきです。
社会は「安全」と「自由」を提示する事。家庭は社会に対して「休息」を与える事。
これも、私の俗語的な感覚ですが、私はこれで良いと思います。
私の世代は受験戦争世代でした。否応にも、社会のプレッシャーが家庭に入り込んで、進学等を目指しました。
それは、社会的な立場を確保するという言葉の元に、誰もが体験した事であると思います。
つまるところ、個人の意識などなく、社会が家庭内に入り込んでいたのです。
その戦いを、いまだに続けている方々もいらっしゃいます。
司法試験であったりです。
形を変えて、いまだに、その方をその方向へ動かしています。
もう、その意識しか家庭にある自分を体現する術がないからです。
私は、こうした「モンスター」を見つけては、書き残して置こうと思います。
まったく自然のままに家庭に入り込んで、社会の目を向けて子供の頃から監視を続ける。
電車であった子供は、これからもこの悲しみの体験を続けるのです。
親は絶対に社会的な、そして自分のストレスの元として子供を見てはなりません。
人間が育たなくなります。
なぜ、子供の純粋な心を見ることが出来ないのでしょう。
もし、子供が害されるなら、社会こそ悪ではありませんか。
私達の日本では、古い時代より社会が家庭に入り込んで、目を光らせる光景がありました。私はそれを「日本的家庭社会」という言葉で表しました。
しかし、現代にあっては、破棄すべきです。
私がこうした言葉を話せるのは、一般社会の常識と家庭をしっかりと切り離した方々に少なからず、ご縁により合ってきたからです。
当たり前の事を当たり前に話せる家庭。社会の不具合を確認できる家庭。タブーと言われる性事を、家族内で普通に話せる家庭。
どこかの家庭を真似せずに、社会に笑顔を持って歩める家庭の方々は、人間の顔を持っています。
その方々の声は生き生きしてますし、あまり「不運」というものを感じません。
私の勝手な願いですが、「日本的家庭社会」を脱しても良いのではないでしょうか。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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