アランの芸術論   舞台芸術への応用

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

本日も「アラン思想カテゴリー」にて投稿したいと思います。

いよいよアランの諸芸術に入っていきます。

まず始めに見るのが「舞台」におけるものです。

ここでは次のような発見がなされています。

 


舞台芸術を見に行った場合、当たり前ですが、観客は自分が観客であることを承知しています。

 全ての事象が、そのことを理解させてくれます。アランはこんな風に解説していました。


例えば、板張りの舞台の床、人が隠れているとわかるプロンプタ-ボックス。

 

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photo credit: insidethemagic via photopin cc

 

 

こうしたものによって観客は、その舞台に共感して巻き込まれずにすむのだそうです。


なんとも単純なことをいっているように思われますが、これは結構重要なことのようです。

 

観客は観客であることを知っています。しかし、観客である彼は、同時に「見せ物」になります。

 

舞台で行われている、そしてそれを取り巻く空間は、確実に彼の「情念」を浄化しています。

 

彼は観客として舞台に参加しているのに、反省して自分をかいりみれるところにいるのです。


これがもし、戦争で敵に追われて、数十人の仲間とあなぐらに逃げた状態だったらどうでしょう。


吹き抜ける風の音を「敵が遠くで何か言っているぞ」と誰かが言ったら、それを真に受けて感動という想像力が呼び起こされ、あっと言う間にその感動は伝染してパニック状態におとされてしまうでしょう。アランは、このように語ります。


しかし、ここではそれは起こりません。アランは、この芸術は人間が「情念」の瀬戸際で自己を制御してくれるように訓練してくれると言います。

 


この芸術が生まれた起源としてアランは「儀式」、「行列」などをあげています。

 


例えば、祭りは「うきうき」した気分を伝染させて、厳粛な思考をあとまわしにしてしまうと言っていました。

 

祭りの本質は、外部的な喜びがたちまち内部的なものとなるところにあって、このように対象が内面を支配してしまうところが、たぶんあらゆる芸術の根本なのだろうと考えています。

 

儀式や行列は無言のうちに感動をよびおこし、同時に規律を与えています。

群衆はこの時、一個の秩序ある対象に変化する。

群衆はこの時、群衆のための見せ物となり、ひとりひとりが全員に対して礼儀を守るようになる。


おそらくこれが舞台芸術の最初の段階であるとアランは考えています。


舞台芸術において、以上のように「情念」は浄化され、人間が人間でいられる環境が保たれるのです。

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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