アラン芸術論 「音楽」②

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

今回は「アラン思想カテゴリー」にて投稿したいと思います。

さて、今回の芸術内容は前回の続きです。

 

「音楽」についてです。

 

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前回の説明より、「身振り」に対立する「声」でありましたが、以上を音楽の基本として次に六つの音楽に関する問題を提示してゆきます。

 

第一に音楽の音は誓いでも立てたように、直接に感動に逆らい、感情を支持しようとします。



楽音自体の音は美しくないのです。楽音は絶えず騒音に帰ろうとします。

アラーム(警告音)である訳です。


(前回の投稿より) 人間はその声を自分の声と混ぜ合わせることでそこに起こるアラ-ムを打ち消そうとする。 要するに、「声」と「声」を混ぜ合わせて、違いをなくそうとつとめるのです。 声と声との不協和を耳でうかがい、声を他の声との間で成功させようとつとめる、自他別のない社会を作り出す。 全ての声は絶対的に一緒になっているから、ここには場所という物がなく、あるのは時間だけになります。


そして、その騒音を打ち負かそうと人間はします。だから音楽は美しいのです。

 

音楽はだから、「舞踏」の場合のように他人から押しつけられた意志ではなく、意志はここでは、「内心の無秩序」と戦っていて、自分の方が勝っていることを理解しようとしているそうです。

 

自然にある「音」と対照させて、自然の中に際だつのです。

 

だから鳥の歌がきれいだという言い方はおかしく、本来は、あれはただ鳴いているだけなのです。人間の歌の要素としての楽音は、自然を克服するものです。

 

 

第二に、「音の移行」、もしくは「変化」です。

 

音楽的な音楽は、きっぱりした変化を示します。持続的で、それ自体に似ている二つの音との間にくっきりした違いを示す物です。

 

これ以外の音は全て「叫び」に還元されます。

 

叫びは感動が感情を食ってしまっている状態です。これは「悲劇」です。悲劇の解決先はただの終わりであって、「詩」というものが屈服しているから自然が大きな位置を占め、時には全てを占めてしまうと考えています。

 

では「叫び」にならない歌、「歌劇」とはなんなのか。芸術において「美」とは常に脅かされている存在であります。だから「情念」が起こり、何かが生まれる訳です。

 

つまり、危機こそ「美」の実体であります。音楽が勝ちをおさめようとすると、情念は感情の中に逃げ込もうとする。これが「歌劇」です。

 

「情念」を圧倒してそこに幸福を得る、回復、継続されることで一つの恒常的な気高さを手に入れる物です。これはミサなどの宗教的なところにも見られます。

 

 

第三にメロディ-の均衡です。


叫びのように自然的な感動の中では、人間ははじめは興奮して声が高いが、次第に疲労して声は低音になります。

 

そこでメロディ-の本質をのぞいてみると、モ-ツァルトやベ-ト-ベンから聞き取れるように、自然の束縛を逃れること、興奮について行かず、疲労のくるのを待たず、自分の言語を調整して全ての可能な弦を次々にならし、全ての弦に均等な休息をもたらすようにする事と、アランは答えます。

 

強制されずに自分自身を埋め合わせていく方法です。

 

 

第四に合唱とハ-モニ-であります。

 

ここでは常に「ユニゾン」が求められます。

 

人間は絶えず多数の音程の中に正しい音程を求め続けますが、これは声の社会を形成した理由を考えれば分かる事です。

 

人間は他人の声を正しく打ち消すのです。

全ての声は絶対的に一つになるから、ハ-モニ-のあった合唱では、一つ一つの声がほかの声によって助けられ、支えられているのです。

 

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第五に調性と転調です。



人間は自然のまま、叫びのままいるかぎり、必ず低音の状態になっていきます。

それを予防するために楽器によって伴奏するのです。

 

固定した諧調的な音がいくつかあると、やはり低音に下がっていくので、調性、転調という手段をとるのです。

 

 

第六には、何より音が時の流れであるという事です。

 

「舞踏」には時間は見あたりませんでした。

そこに「やり直し」があるからです。

音楽にはそうした対象が見あたらないですが、確かな事は「記憶」です。

現実の時間、充実した時間の感情です。

私たち全ての物が同じ一つの動きによって運び去るこの瞬間、こうした対象を持っているのであると、アランは答えています。

 

アランが生きた時代には、現代のような「ロック」などの激しい音楽はありませんでした。

しかし、こうした音楽が現代において、なぜ支持されるのか。

アラン思想におけます「情念」や「感情」、そして「感動」というキーワードを用いて考えますと、その答えは導き出されます。

基本的な姿勢として、アランは「カント」と同じように「自然」という客観の世界に対峙する主観者である「人間」があるというテーマを見せています。

基本的に、私達の周りに広がる世界の音とは雑音なのです。

何故なら、客観世界に広がる音であるからです。

主観の中にある世界の音ではないからです。

しかし、人間はその雑音に刺激されて感情的になります。

故に、もっとも刺激的な客観的な雑音である「ロック」が支持される事は、納得のできる話になる訳です。

 

また、音楽に至っては「時間」を有した記憶である事です。

それは「鼻歌」を思い描いて頂けると理解しやすいでしょう。

そして、時の体験の中に、その「音楽」が流れるのです。

かつて、べトナム戦争においての、ある「アメリカ兵」の話です。

その戦場の中に、「ジミ・ヘンドリックス」の 「パープルヘイズ(Purple Haze)」 が頭の中に流れていたようです。

その曲が、戦場にとても合っていたというのです。

究極の戦いの中で、究極の雑音が、巡り巡っていたという事です。

 

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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