こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
本日も「アラン思想カテゴリー」にて投稿したいと思います。
今回の投稿は、アランの体系から芸術へと方向が向かいます。
(もう少しだけ、ややこしい機能をご説明させて下さい。)
芸術が私達にもたらす「恵み」として、「情念の浄化」という機能が上げられます。
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「情念」とは、例えば、恋愛、野心、吝嗇。
そして、情念に動かされる人間というのは、そこに本来あるべきものとしてある対象を信じようとはしなくなります。
いや、見えなくなるのです。
しかし、芸術によって「情念」にかられた人間は、形のない「誤謬の想像力」(恋愛、野心、吝嗇)の世界から、救ってもらえるのです。
人間は感動の中であるがままの世界とは違った物を見たり聞いたりします。
こうした事は、どのように呼び出されるのでしょうか。
アランは思考が形を呼ぶのでなければ、記憶をたぐることでもないと言う。
歌、横顔、曲線、量感といったものは人間の「体の揺らぎ」によってひきおこされると言っています。
「叫び声はこうした効果の一つで、すぐさま聞き取られることになります。歩みや身振りもそうで、すぐさま触覚に対象を与える。自分を叩いたり、物にぶつかったりするわけです。視覚にも対象ができる。自分の身振りや、その鈍りに軌道、行為の痕跡などが目にはいる。自分自身が動けば、事物も動いたり、逃げ出したり、追いかけたりします。つまり、盲目の想像力が、事物という忠実で純粋な証人を、いつまでも当初の状態にほおっておかないと言うことです。」
(アラン著作集 芸術論 21ペ-ジ 8~13行目より)
こうした働きが示す物は、「想像力」という世界が思考では追う事ができないと言うことです。
頭という思考で「情念」の世界に入っていこうとすることは、できなくもないのでしょうが、難しいことであることがわかります。
ところで、思考がまったく不必要というわけではありません。
思考は対象を見つける役目を果たすのです。
動物ではあり得ませんが、人間の動いた先には、「道」や「家」、「ベッド」などの物ができあがります。
家をつくるにあたり、人間はあるがままの世界をのぞき込んで、想像力を働かせて「情念」の落ち着く場所を手にいれます。
この行程の中で思考は、対象を見つけだす役割を果たします。
つまり、あるがままの世界で人間が行動をして、そこに生まれた物が変化するための「しるし」を機械のように判断するのです。
こうして成立してゆく身の回りの芸術が「情念」を浄化してくれるのです。「情念」の行き先を救ってくれるのです。
その例として歌を示します。「情念」にかられて、まったく抜け道のない状態に追い込まれたとき、人間は痙攣のような、体の揺らぎをおぼえるでしょう。
そして何かしらの言葉(例えば叫びなど)を発したくなります。
もし、無秩序のように「ただ叫ぶ」だけであったら、不完全に情念の「もやもや」のような物が残るでしょう。
しかし、そこに例えば日本の「演歌」という「魂の叫び」があるなら、心から「情念」という形のない物は、迷いから抜け出せるのです。
人間はこの時同時に、体全体を「制御(せいぎょ)」しようとしているのです。
ロックもそうです。
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想像力からくる痙攣、体の揺らぎを統率しようとするのです。
人間は芸術により、自らの情念を制御、そして統率するために、芸術による「情念の浄化」が必要であることがわかるでしょう。
どんな人間も、無意識に「鼻歌」を歌いますし、体を踊らせる事があるでしょう。
それは、それを行っている事で、
自らの情念を制御、そして統率しているのです。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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