こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
本日は前回の続きになります。「感情」という精神の働きについてです。
前回では「情念」というものが克服されたとき、人間は「感情」を手にすると説明しましたが、
これを具体的に書いていこうと思います。
「例えば、「臆病」という情念が克服されると「勇気」という感情を手にすることが出来る。つまりこの感情というものは「意志」という行動によってのみ手にすることが出来るものである。」
アランは「芸術論」の中で、このように述べています。
現段階で解ってもらいたいことは、人間はこうした自由意志によって感情という「気高さ」を手にすることが出来るという事です。
では、「気高さ」が何故に必要な事なのでしょうか。
それは、「情念」が取り囲む世界では、秩序が成り立たなくなるからです。
秩序って何なんでしょか。
秩序を守るために「法律」があります。
その「基本概念」は「安全」を確保する事です。
安全を確保できる為、「生命と財産」を確保できるのです。
「気高さ」とは、人間にのみ備わった能力です。
混沌とした世界秩序に「凛」として自己を存在者たらしめるものです。
この精神がないと、人間は「想像力」という「錯覚」に呑まれてしますのです。
想像力とは単に精神の持つ静観的な力などではなく、身体の混乱と同時に精神の中に入ってくる誤謬と無秩序のことを言うのである」(世界の名著p62)
アランはこのように考えていました。
「情念」が基本的にあり、これを克服しないと人間の世界とは言えないのです。
このブログを見て頂いている「あなた」も解っているはずです。
今の世界の秩序、それも身近な何かがオカシイ。
アランは、このような世界を「自然」と言っていました。
こんな「いかがわしさ」とはいったい何なのか。これこそ「自然」なのである。それこそ人間が把握しきれない世界である。それは何か「恐ろしい物」を潜ませているものである。
この恐ろしい物を、無秩序をどのように解決するかと言えば、人間の「感情」なのです。
「情念」を克服する「感情」という「気高さ」が、人間の世界には必要なのです。
それは「崇高」な世界です。
人間の世界は、芸術作品のようにうごめいています。
いかにして、この芸術作品に触れるべきか。
ただ、「情念」に流されて触れるべきか。いいや、そうではありません。
この世界で生きるためには、「情念」をコントロールできる「感情」が必要なのです。
人が、道徳を語るとき、宗教を語るとき、経済を語るとき、
人間の道を語るとき、それは必要です。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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