美しい人達を見た。それは嬉しかった。



こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

これは去年12月の話なのですが、電車のドア付近で並んでいた時です。

少し、身なりの悪い親子とお婆さんの3名が目に写りました。

私の前に並んでいる方でしたが、明らかに「農村付近の貧しい中国人」の印象を受けました。

電車が到着しますと、ゆっくりと車内に入ってゆきます。


車内でシートに座って会話を始めます。

いつもであれば「うるさいな」と感じるんですが、この時は私の中に「嬉しさ」が溢れました。



あまりにも、人間的に光輝いて見えたのです。

 

小さい女の子が、母親に甘えていました。しかし、その母親は、とても「年齢的」に高く感じました。日本人のように「肌ケア」なんて意識は無いのでしょう。

しかし「愛」に満ちているのです。

「身なり」がまったく気になりません。

隣にいた「お婆さん」は「福の神」のように見えました。

これは本当です。


私は、ここに「意識」の不思議さを感じたのです。

この時の電車内の他の日本人からは、それは「機械化」と言いましょうか、殺伐とした感覚を受けました。



私が「私が思う「天津祝詞」の意味と効果 ③」という投稿で、こんな事を書いています。

 

●「競争」のようなフレーズに正しさを感じていました。

●「客観的なマシーン」のような世界が正しい構造であるとも思っていました。

 

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この「客観的なマシーン」のような雰囲気が、車内にはありました。


しかし、中国人の親子は違いました。

とにかく、人間らしさを感じたのです。



日本人は優れた民族だと聞く事が多いですが、この時には微塵も感じませんでした。

私は、少しでも「中国人の親子」を眺めていたかったのが本音です。


「美しく生きる」という事に、実は「お化粧」もいりません。

「容姿」を気にする事は一切ありませんし、「貧しさ」が見えた所で、恥ずかしい事ではありません。

「学歴」がない事や「就職歴がない」や「目標から挫折した」という、いわゆる「コンプレックス」も、実は意味がありません。


それらの「心境」は「客観的なマシーン」の世界に誕生します。



ただし、この「客観性」という存在は、人間が作り上げた「作品」のひとつです。

その為、「人間そのもの」の存在には敵いません。

ところが、どうしても「社会性」という立場に追われるのが日本人です。


だから、もしかしたら「中国人の親子」を良く見ない人もいたかもしれません。

ただ、この投稿記事を書いている時点でも、あの「美しさ」の感動は色あせません。


いわゆる「礼儀が悪い中国人」ではなく、「人間が生きている中国人」です。

「愛」や「仁」や「義」、「礼」を持った方々です。


正月は「美術館」と「博物館」で過ごしましたが、とても彼らには敵いません。


人間である事、人間の美しさ、生きる事に対面する意識から、まったく「感動」と「感謝」を覚えました。

この方達は、これからも「人間」として「意識」を腐らす事もなく、「客観的なゲーム」の中に陥る事無く、愛と美しさに過ごされる事でしょう。

今回は、私の勝手な日記でしたが、どうしても書き残しておきたかった事でした。

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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