スピノザの言葉 「幸せとは美徳の報酬ではなく、美徳そのものなのである」

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

本日は「哲学カテゴリー」にて投稿します。

 

久しぶりの本来の「哲学」へ戻ってきた様な投稿かと思いきや、ここで「スピノザ」です。

 

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photo credit: Statue of Spinoza via photopin (license)

 

哲学を語る上で、このスピノザは大人物です。

要するに「この世は神の国」という内容です。

 

あまり深入りしませんが、スピノザは偉大な哲学者です。

デカルトと同時期の方ですので、近代に先駆ける知恵をもたらした人物です。

 

そんなスピノザの語った言葉の中に、以下のような一説があります。

 

「幸せとは美徳の報酬ではなく、美徳そのものなのである。

人は欲望を抑えるから幸せを享受するのではなく、幸せだから欲望を抑えられるのである」

 

このブログ内で「マルツ先生」の「サイコサイバネティクス」についてまとめていて、その中でスピノザの言葉が上げられていまいた。

 

やはり偉人は違います。

物凄い言葉です。

 

私達が通常、幸せを得ようとする時、それは「得よう」とする行動です。

いや、言葉としては「あたりまえ」ですが、つまり、私達が幸せを得ようとする場合には、何か「報酬」か「得れる物」を求めている事が通常です。

何故かと言いますと、そのような日常の「あたりまえ」が流れているからです。

 

自分が生きる為に「何が必要か」と考えた時、普通は「お金」を稼いで「生活」を考えます。

その土台に「家庭」などを考えます。

これは普通の考え方であると思います。

 

ところが、そう言う事ではないのです。

 

ほとんど必ず、「賃金」や「愛情」などを「受け取る」という行為を自然と言葉にしてしまいますが、そうではないのです。

 

何がそうではないかと言いますと、これらは「他者」から与えられる物なのです。

 

 当たり前だろ!と思われるかも知れませんが、いや、違います。

 

この「他者」から与えられる事ばかりを期待している限り、他者依存の人間であるのです。

他者依存の人間は、その他者から与えられる「幸せ」しか理解できないのです。

 

これは凄まじい事です。

この世界で生きている限り、自分は他者の視野の中以外に存在しないという事です。

また、自分が行動している限りの出来事も、他者の依存に限定されていると言う事です。

 

そうなりますと、世の中には「同じような言葉」ばかり、あふれ始めます。

「お金を稼いで、家族を養って、しあわせになろう」

 

普通の言葉ですが、その言葉は誰もが同じように語っている言葉です。

 

ただ、その語る方が「笑顔」に満ちているのであれば、問題はないのです。

 

昨日ですが、急行電車の乗る為に並んでいました。

席に座れそうだったので、座ろうとしたところ、ある「ご夫婦」の方が後方におりましたので、すかさず立ち上がって場所をゆずりました。

その後、電車が別の駅で一時停車して、また席が空きました。

子供ずれの3人家族が、すぐ目に付きましたので、場所をゆずりました。

 

もちろん、いずれも「目線」も向けず、「どうも」という言葉もありません。

出来たら、疲れていたので座りたいのですが、どうやら座れば逆に幸せになれない気がしました。

 

そんな折、ここで「人身事故」が発生しました。

電車に乗っていた方々が「振替輸送」でしょうか、下りてゆきました。

私も外に出ようかなと思ったら、電車が発車するとのアナウンスが入りました。

 

その後、別の車両の空いている席に座れました。

また、その雰囲気が良かったのです。

ガサツではないのです。

 

私が感じた事は、どんなに「幸せ」に見える世間体でも、それは「言葉」にすぎない事です。

大急ぎで「座席」を目指す人は「自分本位」な人達です。

 

「自分本位」な人達は、「座席」からも解りますが「他者」からの「報酬」を得て満足する人達です。

 

スピノザは、そこには「幸せ」なないと言っています。

 

「幸せ」とは、自分が感じる「美徳」のみなのです。

 

この世界で感じる「幸福」や「不幸」という現象は、つまり「自分がどう感じるか」だけなのです。

 

電車の「座席」に「幸福」を見る人は、間違いなく大多数です。

それは「楽」が出来るからです。

ただ、その「楽」と感じる行為は「他者」の楽そうな様子を伺って会得した経験です。

「座ったら呪われる」という宗教があったら、座る事はないでしょう。

 

「幸福」や「不幸」という現象は、つまり「自分がどう感じるか」だけという事です。

 

自分の中にある「美徳」を感じていれば、それだけで幸せなのです。

他人の描く「未来」に悩む事ではなく、会社で言われた「差別的発言」に悩む事でもなく、世の中が決定してるかのような「社会的立場」に悩む事ではないのです。

その悩みはすべて、「他者」が与えた場合に、不足しているから嘆くものです。

ならば、他者から受け取らなければ良いのです。

自分の中にある「美徳」のみを持っていれば、一切の見返りは必要ないのです。

電車で席をゆずっても「ありがとう」という言葉もいりません。

 

 

「幸せとは美徳の報酬ではなく、美徳そのものなのである。

人は欲望を抑えるから幸せを享受するのではなく、幸せだから欲望を抑えられるのである」

 

では、その「美徳」を得るには、どうすれば良いかです。

それは簡単で「自分本位」な考えを修正してゆく事です。

 

「自分本位」な考え方は、どうしても「欲望」の観点から捨てきれないと思います。

捨てきる必要はないのです。

 

「自分本位」な考え方は、どうしても「他者」からの依存を求めるスタイルに立脚しています。

駄々を言う子供を思い浮かべて頂くと、解りやすいと思います。

何かを得ないと、満足しないのです。

 

この欲望を抑えれば、さらに興奮は激しくなります。

しかし、自分が「幸せ」である時には、このような行為は行いません。

 

このような行為に導くのが「自分本位」を修正してゆく事です。

そんな難しい事ではないのです。

 

自分が幸せである想いを、いつも巡らせていれば良いのです。

 

バカと思われるかもしれませんが、これを続けていれば、あきらかに他者よりも自分は幸せでいる時間が長くなります。

 

この「幸せ」の時間を長く持つことが、幸せを得る事です。

勝手に、そんな人間が自分の中に作られてゆきます。

 

そうしたら、「自分本位」が「他人に費やしてやろう」と感じるようになります。

 

「自分本位」とは「他者依存」なのです。

だから、逆に「自分」を「自分」で幸せの気持ちを長引かせる時間を作れるようになれば、「自分本位」の精神は消えてゆきます。

「他者依存」という習慣も消えてゆきます。

 

「他者依存」である限り、「結果」や「報酬」を求め続けて、それが答えである自分である生き方しか理解できなくなります。

 

 

「幸せとは美徳の報酬ではなく、美徳そのものなのである。

人は欲望を抑えるから幸せを享受するのではなく、幸せだから欲望を抑えられるのである」

 

この言葉に全て詰まっていると思いませんか。

「幸せ」とは、自分が幸せに感じる想いを続けて発生する「美徳」を感じ続ける事。

決して、報酬として与えられて満足し続けるものではないのです。

それは他者の依存で、自分自身ではないのです。

 

そして欲望を抑える必要もなく、それは幸せの「かたまり」になっているからです。

 

ほとんど「サイコサイバネティクス」からのパクリですが、伝わる所があると思います。

 

私達は、私達の中にしか「幸せ」を見出す事は出来ないのです。

それは他者の言葉なんで、まったく論外に入る余地がないのです。

 

その純粋な自己の「幸せ」を育てる事が、人間として「在る」という存在になるのです。

 

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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