神社は気を吸う感覚を感じた事があるでしょう。(リメイク)

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
本日は「プチ神事カテゴリー」にて投稿します。 


 
まず初めに、私は霊能力者ではありません。


よって、明確な神様のお告げを聞いたことはないでしょう。 
 
ただし、私の中によぎる「声」を、それは感覚的に受ける事はあります。


例えば、ある神様にご挨拶後、拝殿に向かおうとすると、「拝殿なんて近寄るな、もう帰れ。」と感覚的に気持ちになった声がよぎるのです。


実際、拝殿に近寄ると「悪い思い」をするのです。
変な人がいたり、変な「気」がよぎっていたり。
 
私は明確に「人間」と「神様」を分けて考えている為、あらゆる姿勢を、神様に対して「お預け」する事は、決していたしません。 
 
この感覚も、きつく教わりました。


私という存在があって、初めて神様を尊ぼうとする、自分という存在がある訳です。


その為、私という存在をしっかり持って、確立する事が大切なのです。
 
しかし、こうした神社で感じる事ですが、「神社は気を吸う」と感じる事がある事です。

 

 
もちろん、全ての神社ではありません。
 
ここで言う「気」とは「生気」の事です。
 
それが、ふさがれる事もありますし、吸われている気もありますし、その為に気分が悪くなって、どうも体がうまく動きません。
 
「生気」が異常をきたすからです。


 
ふと、同様の事をネットで調べて見ますと、けっこうヒットしました。
 
私は霊能力者では無いため、何が正解であるかは解りません。 
 

ただ、「他者依存」系の人は、近寄らないほうが良いと思います。

結局、なぜ「気分」が悪くなり、「気」が吸われている気分になるかと言う事を感じるか、その原因が「自己」の放棄から現われている事なのです。

 

神社に赴けば、通常であれば「神様は尊い」と感じて、自分を低く見てしまいます。

多くの人がそうでしょう。

 

勝手に上下関係を自分の心の中に作っているのです。

たしかに「上下」はあるかもしれませんが、別にそれを意識せずに、自分という存在を大切にする事が必要です。

 

「神頼み」なんて、もっての他です。

そんな意識をもったら、自己を放棄してします。

 

神社には、ある時には「神頼み」の念が満ち溢れている時があります。

本当に自然豊かな場所であれば、そんな「気」も流してしまうのですが、やはり満ち溢れている時があります。

 

これは「誘惑」に近いのですが、人間は電車で眠っている人を見かければ、自分も眠くなるものです。

同じ原理で、「神頼み」の念があふれる場所に訪れれば、その影響を受けてしまうものです。

 

私は、このブログ内で「他者に尽くす事が必要」と書いています。

これは非常に大切な事です。

 

このページを見た人だけ覚えておいてください。

人間は、自分と他人の境界線が無いのです。

 

いや、あるよ、と思われると感じていますが、境界線がないから、他者の中に「ズンズン」と入って行けるのです。

 

自分と他者との間には、実は境界線が無いのです。

では、何故に「他者に尽くす事が必要」と言うかと言いますと、自分の姿が見にくいからです。

 

どう言う事かと言いますと、本当は自分の事だけが出来ていれば問題はないのです。

しかし、人間は自分の姿や行動は、見えにくいのです。

そのかわり、他人の行う事には気が付くのです。

だから、つい口を出してしまうものです。

 

それほど、他者とは、自分以上に見えやすいのです。

だったら、他者を助ける事で、その様子を自分に投影すれば良いのです。

 

自分を自分自身で磨くことは、大変に困難です。

ほとんど、無理です。

 

しかし、他者を助ける事で、勝手に自分にも同じ影響を与える事ができます。

それは自分と他者に境界線が無いからです。

 

確実に「視野」が変わります。

やがて「魂」の存在を理解できるようになります。

そうなりますと、「神頼み」の必要がありません。

自分の神性を理解できているからです。

 

ただ、ここで間違ってはいけない事があります。

それは「無理」をして「他者」を救うなんて考えないことです。

 

よく宗教で「他者に尽くす事が必要」と言っていますが、あくまで「余裕」があり、可能な範囲で行うだけで良いのです。

小さな事で良いのです。

 

仏教では「お布施」の必要性を教えていますが、最も重要視されるところは「知恵」を授ける事です。

物を差し出したり、財産を寄付する事よりも、「知恵」を授ける事の方が上です。

ただし、無理なら良いのです。

あくまで、自分が可能な範囲内で行えば良いのです。

自分が幸せになって、初めて他者に施しが行えるのです。

 

だから、生活が苦しくなるような「物」を差し出したり、財産を寄付する事は、けっして行ってはいけません。

それは間違った教えです。

 

こうして「自分」を確立できていないと、安易に「神頼み」の精神に走ります。

「神頼み」の精神で神社に赴けば、同様の人達と同じ念の中に入ります。

 

しかし、その念は正しくありません。

 

何か、特殊なお経を唱えている人を見かけても、それは「あなた」の真実に成りえるとは言い切れません。

とかく、そうした特殊状況に飲まれやすいのも「他者依存」の特徴です。

 

「自分」に依存せずに「他者」への依存傾向が強いと、簡単に「気」を吸われてしまいます。

「他者依存」とは「神頼み」の姿勢です。

 

「神頼み」の姿勢は、安易に自分を放棄する危険な態度です。

それが続いてしまうと、自分をコントロールできなくなります。

大変に危険な行為です。

 

「自分」に依存する行為を理解できれば、おおよその「神秘体験」的な事は「おまけ」に感じるようになります。

 

「自分」に依存する事。それには「他者依存」をやめる事。

他人の目を気にして、他人の指示を待つのでもなく、勝手に思い込みを作らない事。

 

「自分」を愛すること。やがて余裕が出てきて「他者」への配慮が生まれるようになります。

そうしたら、継続して小さな「援助」や「助け」を続けること。

 

「自分」の視野が変わってきたと実感できたら、もう自分の姿は変化しています。

 

神社は気を吸う感覚を感じる時とは、自分が「神頼み」の姿勢から自分を放棄して、気を念に吸われているのです。

だから、そんな場所へは行かないことが一番良いのですが、行くのであれば、自分をしっかりと保っている事が必要です。

そして、しっかりとした聖地に行くこと。

 

簡単ですが、自分と言う存在を保って下さい。

特殊な人達を見かけても、わざわざ参加しないで下さい。

変なお経には変な意味しかありません。

 

何か苦しいのであれば、まず自分を許してやってください。

自分のこれまでの見えない記憶の中にある出来事に対して許しと愛を注いでください。

「神頼み」の姿勢を解いてください。

自分に依存して下さい。

 

自分を保ち、自分の光を理解して、自分を確立してください。



今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。