占いと私


朝目覚めて、本日の運勢を確認する自分がいます。しかし、大きなウェイトをしめている訳ではありません。

中国における戦国時代、皇帝に世の中の状態を連絡する係、その方を「占」のような名称で呼んでいたそうです。「天」からのお告げを「皇帝」と相まって「占い」となったと聞いた事があります。

戦国時代では、天命を全うする事が難しい状況です。その生活の中で、体のご不自由となられた方々が「占い」を行い、生計を立てる手段としていたそうです。

「占い」が正しいか、間違っているか。運命は測れるものか。そして、どこにあるものか。

どこにあるかについては、私の知覚する世界においては「心」にあります。

「心」もまた、臓器と違いまして目に見えるもではありません。

私は確実に「心」の場所を肯定できませ。

しかし、「想う」とう習慣が私を作り、導いています。

私の中では、「想う」の中に「占い」があり、それを知識の「道具」のように扱っています。

故に、「占い」にのめり込む事もなく、好きですし楽しく接しています。

しかし、人を裁き導く道具ではありません。「占い」という名称の道具に支配されたいでしょうか。

支配されたたら、自分が消えてしまうでしょう。

「我思う、故に我あり」。デカルトの言葉です。

「我」の支配者でないと世界を正確に知覚できないでしょう。


「我思う、故に我あり」


毎日を楽しく、穏やかに生活できる手段の力として、私はこの言葉を強く感じて生きています。




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