アランの芸術論  体系の少しまとめ

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

今回は「アラン思想カテゴリー」にて投稿したいと思います。

ずーっと放置し続けていました。これは、もう考え直す時間が取れなかった為です。しかし、出来る限りですが、こんな思想があるのだなぁと思って頂ければ幸いです。

今回の投稿は、これまでのアランの体系を簡素にまとめた物です。

 

  アランの体系をとらえてゆくにあたり、まず始めに抑えておかねばならないのが「想像力」であります。アランの考える「想像力」とは、一般に、その場にないものを精神そのもののなかに、手でさわれない映像という形で描き出すものではありません。

 

アランの「想像力」とは外部の刺激により生まれる「情の動き」であります。

 


「想像力とは、単に、また主として、精神の持つ静観的な力などではなく、身体の混乱と同時に精神の中へ入ってくる誤謬と無秩序のことを言うのである。」

 

とアランは考えています。身体の混乱とは何かですが。これは情動です。

情動は、外部の刺激により、肉体に生まれる情の動きであります。特に「恐怖」が関係しています


薄暗い夜道を一人で歩いていて、ふと茂みに何かを感じとったとします。そのとき、肉体には何らかの身震い、悪寒、動悸といった知覚を覚えるでしょう。では何故、こうした情動が発生するのでしょうか。

それは、「対象」としての、茂みの何かを感じるからです。

この場合、「感動」するからという言葉が合います。感動の中に、こうした対象が発生しています。対象に対して「恐怖」にかられた人間は、その対象に対して認識しているのではありません。あくまで「感動」、つまり想像力の中で認識しているのであります。空想的な映像が、自然のように自分へ見せているのであります。

 


もっとわかりやすく言うと、壁の割れ目などに人間の顔をふと思い浮かべたりすることが誰にでもあるのではないでしょうか。

 

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photo credit: zen via photopin cc

 

これが想像力です。まず、顔という「対象」は確実にあるのです。ただ、壁の本来そうあるべきあり方、つまり壁は壁である事を、その時は理解していないのです。いや、理解しようとさせないとアランは言っています。この時、情動は情念に変化しているからです。


「情念」とは「恋愛、野心、吝嗇」などでした。例えば、「情動」の怒りは野心に、「情動」の恐怖は吝嗇になると、アランは言っています

 

「情念」に動かされる人間というのは、そこに本来あるべきものとしてある対象を信じようとはしません。感動にかられてしまい、想像力という空虚な世界に没頭することを理解できないでいるからです。だから、情念にかられる人間の言うことなど信じてはならないと、アランは言っていました。


しかし、こうした人間誰しもが持つ「機能」が、芸術における作品を作り出しつくりだし、作り出される芸術作品に共感されるのであります。

アランは人間が対象を獲得しようとする働きとしてさらに「触覚」、「視覚」をあげています。その上で、次のようなジャンル分けを行っています。


人間の身体だけを変化させる芸術として、「舞踊」、「歌」、「詩」、「音楽」を。

反対に外部の対象を実際に変化させる芸術として、「建築」、「彫刻」、「絵画」、「デッサン」というものです。

ジャンル分けを行った理由は、もちろん、それそれに人間の特色が現れ、これにより人間を把握する事ができると考えたからです。

同時に、芸術は他のジャンルに学ぶことをさけて、独自性を発揮することで傑作となると信じていたからである。

 

以上のように、「想像力」、「情念」の存在が、あるがままの世界とは別の人間が生きる世界を現し、人間はその誤謬(ごびゅう)の「感動」の中に芸術を生み出し、共感するのであるということを、アランは語ります。

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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