ジャン=ポール・サルトル 「眼差し」に注意して下さい。

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

今回は「哲学カテゴリー」にて投稿したいと思います。

ジャン=ポール・サルトルの「眼差し」について投稿しようと思います。

 

 誰でも経験している事ですが、人は「目と目」が合うと、その方と意識を合わせてしまいます。

 

 

01CLP11697

 

 

これが社会的な「制裁力」を持った方なら、特にその傾向は強まります。

 

01CLP11719

 

一見、何の事もない「眼差し」ですが、この「眼差し」がある為に、人間は「他人」の意識に同調してしまうのです。

 

「サルトル」はこんな事を言っています。

普通、人間は誰でも、自分が「主体的」な存在である事を感じてます。

これは誰でも、自分が自分の感覚で生きている事を解っているという事です。

 

ところが、他者からの「眼差し」を感じた時に、あなたの「感覚」である「主体」は、他者を理解しようとします。

その他者の「感覚」は、同様に「あなた」を見つめています。

 

あなたが「警察官」の「眼差し」を感じた時に、あなたの「感覚」は「警察官」を写し出し、あなた自身という「主体感」が消えているはずです。

同時に、「警察官」は「あなた」という存在を自分の内に写し出して「職務質問」をしてくるのです。

 

この時、あなたという主体的な存在は消えてしまっています。

 

「あなた」と「警察官」の世界が同調している状態であります。

「あなた」と「警察官」の間に世界が構築された状態なのです。

 

これが複数の他者との関係にある場合、何を感じますでしょうか。

 

 

01ILM08012

 

あなたが普段、自分自身と感じている「主体」という「感覚」は、他者の中にあり、他者と世界を同調する事で、その世界が出来上がってゆきます。

それが複数の人間の集団であるならば、その社会の成員としての世界が出来上がります。

その社会と、あなたは同調した存在になるのです。

 

人間はこうして、他者から見られている事を理解した時に、自分の世界を自然と薄れ崩して、他者を自分の意識の中に写し出します。

他者も「あなた」を写し出しているので、同調した世界が築かれるのです。

その為に、人間は「主体」だけで生活する事は無く、他者との社会的な存在の内に同調してゆくのです。

 

 

しかし、この「眼差し」という感覚が「危険」である事も理解して下さい。

人間は誰でも少なからず、「ご両親」などの影響を受けています。

 

間違いなく、「ご両親」などの「期待」を受けて育っているはずです。

こうした「期待」を裏切る事は、簡単な事では無いはずです。

 

「これは人間として当然だ」などの理由も思い浮かび、「期待」を裏切る事は難しい事でしょう。

 

「ご両親」などだけでなく、「社会的な地位」に関する「恐怖心」もあるでしょう。

これを裏切れば、社会的に排除される「恐怖心」も同様に発生するはずです。

 

こうした自分とは別の世界の同調効果は、「眼差し」から発生しています。

 

まるで、自分の世界観のように意識の中にある「他者」の世界が、そこにあるのです。

また、「他者」は同様に「あなた」を意識の中に取り込んでいるので、「あなた」が動けば、「他者」も動き始めて、「あなた」に何らかの手を下します。

 

通常、この世界を裏切ろうとはしません。

それが自然であると思い込んでいるからです。

また、その世界を裏切った時、あなたはその世界の住人ではなくなります。

 

わたしは、本来は人間という存在は「あるがまま」の生活が過ごせる事が一番良いと思っています。

しかし、一度「モード」という体系を作り上げてしまうと、それが真実に見えてしまいます。

 

世の中で「大学に進学する事が絶対条件」で、「企業に就職する事があたりまえ」で、やっと普通の生活が送れますという世界観に育った方なら解ると思いますが、それが正しい事であったでしょうか。

 

そして、その世界の「期待」を裏切る事は出来なかったはずです。

 

ある人は「精神的に不安定」になり、「自殺」が深刻化したり、「いじめが絶えない」事もあり、そもそも学校で真面な経験などないでしょう。

その自他同調の世界で発生する、他人からの「嫌がらせ」も「愚痴」も、「眼差し」から反映される世界では、受け入れ続けるしか、方法が無いからです。

そこに自然を写し出して、正義を盾に自分を奮い立たせても、「病」を発生させて歩みを進める事が困難になります。

 

また、会社は入社して、その組織に属す事を最優先しますが、あなたは本当に、あなたを見つめて過ごした時間がどれほどあったでしょうか。

 

この「眼差し」による世界から抜け出す事の出来ない方々が大勢いるはずです。

その世界が世界であり、それ以外の世界を想像する事が出来ない状態でいるはずです。

 

何が幸いであるのか、それは誰しも個人の考えによる事になります。

 

私は、目に写る世界とは「ドラマ」か「映画」を眺めている程度の世界であると思っています。

台本が変われば、世界の流れも変わります。

役者も変わりますし、スタッフも変わる事でしょう。

 

本当に、私達のイメージが強まった世界が現実の世の中です。

だからこそ、現実に関わる事は必要ですが、あらゆる姿勢を込めて現実に関わっても無意味なのです。

その「映像」を眺めている本人である自分自身を、「あるがまま」の態度で保つ姿勢を少しでも持っていないと、いつ終了するか、いつ変更するか解らない「ドラマ」には対応が出来ないのです。

 

「眼差し」という現象は、自分と他者との世界を同調した世界の中に置く事になる事です。

 

「あるがまま」のあなたが、信頼できる他者との間に築かれる世界は、きっとこれ以上ない最高の世界でしょう。

 

 

 Kiss

photo credit: Kiss via photopin (license)

 

 

故に、「眼差し」という行為に注意を払って欲しいのです。

安易な「眼差し」の果ての期待には、心安まる場所は無いのです。

 

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

0 件のコメント :

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。