「天照皇太神の神勅」である「六根清浄大祓い」の必要性について

いつもブログをご覧頂き有難うございます。

ブログの投稿が途切れていましたが、何とか再開です(^_^;)


さて、前の投稿で「六根清浄大祓い(ろっこんしょうじょうのおほはらい)」について投稿させて頂きました。




photo credit: eshin-kuni 巫女 via photopin (license)



これは、「天照皇太神の神勅」であります。


「天照皇太神」の「実相」はいかなる存在であったのか。


それについては展開を控えますが、あの「天照皇太神の神勅」が「六根清浄大祓い」である事がミソです。


非常に解りやすい「祝詞」ですし、今の世の中に広まると有り難い「祝詞」だと思います。

御霊(みたま)は「神」と同体である



この祝詞の中で、「天照皇太神」が「心は則ち神明の本主たり」と話していますが、これは非常に大切です。


この世界のあらあゆる存在は、本来は同体であるのです。


御霊(みたま)は、神と呼ばれる世界と同じであると話しています。


科学的に見ても、「当たり前だ」と言わんばかりの回答です。


ところが、「神は神」であり「人間は人間」と比較する傾向があります。


しかし、それは間違いです


人間もまた、「御霊(みたま)」を持っているのですから「祀られる」事があります。


つまり、人もまた神であり、その他の御霊あふれる世界が「神」と言う事です。


だから、傷つけると、ただ悪くなるだけ



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我が魂を傷ましむる事莫れ

是の故に目に諸の不浄ふじょうを見て

心に諸の不浄を見ず

耳に諸の不浄ふじょうを聞きて

心に諸の不浄ふじょうを聞かず

鼻に諸の不浄を嗅ぎて

心に諸の不浄ふじょうを嗅がず

口に諸の不浄ふじょうを言ひて

心に諸の不浄ふじょうを言わず

身に諸の不浄を触れて

心に諸の不浄を触れず

意に諸の不浄を思ひて

心に諸の不浄を想はず

此の時に清く潔き事あり

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この部分では、自分を傷付けない事を説明しています。


傷つければ、それだけ状況が悪くなると言う事です。


何故、悪くなるのか。



単純に「御霊(みたま)」が悪い状況を増幅しているからです。


だから、お止めなさいという事を、ご説明されています。


身体が健全であれば、願いが叶う



この事を、完全に説明されています。


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我が身は則ち六根清浄なり

六根清浄なるが故に五臓の神君安寧なり

五臓の神君安寧なるが故に天地の神と同根なり

天地の神と同根なるが故に万物の霊と同体なり

万物の霊と同体なるが故に為す所の願として成就せずといふことなし

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身体が健全であると、天地と関わりを持てるようになります。


「天」はエネルギーを、「大地」は私達の生活を作り出す「物」を提供してくれます。



私達が「思考」の中で描きます、様々な「イメージ」としての「形」は、現実として現れていなければ「形」に過ぎません。


しかし、その「形」を「神様」に対して願う行為は、太古より続いて来ました。



そして、その「形」が現実化される為には、「願い」を成就する為には、身体が健全である必要があると「祝詞」では説明されています。


いかなる困難があろうとも、まずは「私達の体」を健全に保つ事が大切であると言う事です。


どんなに「嫌な状況」が巡ってきても、「身体的に不利な状況」が押し寄せてきても、まずは「健全」である事が必要という事になります。


この「健全さ」が、天地の神に対して「願い」を成就される、最大の秘訣である事を「天照皇太神の神勅」として、残されています。


健全であり、御霊(みたま)が神である事を忘れない



太古の人達は御霊(みたま)という表現で世界を現わしていますが、これは「オカルト」な事であはありません。


世界とは、このような場所です。


その最先端の科学が「量子力学」でしょう。


私達が健全を保つことで、この世界と同体になれる感覚は、皆々様が解っていることです。



だから「死」などの「失う事」に対して恐怖を覚えるのです。


今回、私が「六根清浄大祓い(ろっこんしょうじょうのおほはらい)」を投稿した理由に、「窮地に立つ場合の自己」というテーマがあります。



世の中で「カルマ」とか呼ばれる言葉あれば、人が「窮地」に追い込まれる事は良い事だなんて、そんな風に思われるかも知れません。



しかし、それでも「良くある事」が素晴らしい訳です。

ずっと「窮地」にある必要はありません。



では、どうすれば良いのか。



「天照皇太神の神勅」を頼ります。


この祝詞に書かれた事を、実践します。



人が良くある為に。




今回は以上にしたいと思います。


最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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