こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
今回の投稿は日記です。(少し長い投稿です)
私はテレビを見る時間が限られていますので、ずいぶん昔から「アイドル」や「俳優」などの名前がよくわかりません。
しかし、それでも「いじめ」や「自殺」や「殺人」や「事故」などのニュースは見る機会があります。
この投稿記事を書いているところで「ヤフーニュース」を見れば、やはり「中学生の自殺」が発生していました。
私がどうしても理解できない事があります。人間は本来、安易に自殺できるような存在ではありません。拒絶を行います。生きる為に、拒絶します。それは「生物」だからです。
しかし、多くの事件が発生する現場では、この拒絶が排除されています。
私の苦手なグループというやつ
人間が目標を達成しようと考えるなら、必ず「チーム」を組む必要があります。これは目標達成には欠かせない行動です。
しかし、「グループ」を形成しますと、その「グループ」の中に入らなければなりません。私が意識の底で嫌う事ですが、この「グループ」に属すると、嫌でも意識の原型に「一体感」が形成される事です。
私は、こうした意識を「トランプカード」のように「客観的な他者」として扱う事ができますが、「中学生」ぐらいの方々では、こうした判別は困難な事でしょう。
それは知らないからです。
目に見える世界は「ある世界」と認識してしまう
目に写る世界。それは「ジャック・ラカン」的に言えば 「象徴」がありふれているだけです。
ところが、こうした様々な「思考」に触れる機会に、多くの方は少ない状況にあります。「小手先の知恵」や「テクニック」を学ぶ事を先決されます。
ただし、それが危険な事を理解していません。その学んでいる「小手先の知恵」や「テクニック」が重要なのではありません。それを操る「母体」が重要なのです。
それが、本来は「マインド」と呼ばれるものです。「マインド」が根幹なのです。
この「マインド」の根幹から「相手側」の「グループ内」に入りますと、そのグループから出れなくなります。
その典型が「家族」です。
目に写る世界は、そこに「ある」と認識して生活します。そして、そこは「個」の世界ではありません。「グループ」の世界です。
どうあがいても、「意識」の根幹に「グループ」があると、それを切る事が難しいはずです。
学校の諸先生方も「象徴」の中でしか視野を持っていない
自殺した学生が出る度に学校は「調査」を行いますが、とても学校の先生方が調査する内容を受け取る気にはなりません。彼らは「たかが知れた世界」の中で「目に写る世界」しか生きていません。
頭は良いのでしょう。世間体もある事でしょう。ただ、私はまったく興味がありません。
子供は「学校」のグループに入れば、そこから出れなくなります。
これは家族と同じで、「相手の生活の中に入ったら出れなくなる」という事です。そこに「マインド」を預けてしまえば、解決は困難になります。
常に、その「変な場所」から回答を模索するからです。
ある訳ないのにです。
安易に他者のグループに属する事は、このくらい恐怖を持っているのです。
さて、まともな学校がどの程度あるのでしょう
まともな家庭。まともな学校。私には「象徴」が張り巡らされている程度にしか写りません。そこには「認識」という言葉も見当たりません。
つまり、人間という「生物」が本来「恐怖」を感じて「生命を守る」行為からかけ離れているのです。
ここでは、どうあっても「死」を見つめる事が正しくなります。
人間の中には「正義」だけが存在してるわけではない
人間の中には「自分を殺す」ような存在もいます。自分に「負荷」をかけるのです。これに話しかけても無視します。お金を要求される事もありますし、お金が用意できなければ、平然と自分に「負荷」を続ける存在があります。
そして、人間が「本来の生」を一切に無視していれば、自己が動かされます。自分によって自分が動かされます。
その方向は「悲劇」なのです。
だから、こうした行動や出来事、この原因となる根源が何であるかを見る必要があります。
まずは、「相手の生活の中に入ったら出れなくなる」という言葉を覚えておいて頂けると有り難いと思います。
この言葉は、私が「意識」から離れている最中に頭に巡った言葉です。
学校や会社、仲間内のやり取りや体制など、その相手の生活の中に入ると、出れなくなります。
だから、常に、そこに写る世界は「象徴」である、「象徴」が張り巡らされていて、私と言う「マインド」である本体を、そこに晒さない事を、自分への注意も含めて投稿させて頂きました。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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