こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
本日は「日記カテゴリー」にて投稿します。
題名が、あまりに飛び過ぎていますが、私が感じている事です。
何故、こんな事が言えるかですが、それはやはり神社での出来事から始まりました。
私は、このブログをご覧になってくれている方であれば解ると思いますが、哲学を少し勉強していました。
この哲学ですが、いわゆる「倫理」とはかけ離れた世界です。
この世界に見えないが、社会を形成する構造を追い求めるような、または人間の見えない構造を追い求めるような作業をします。
つまり、「血の通わない」ような、「心理」ではなく「真理」を求めます。
そんな人間が、神社に立ち寄ると、どうしてもしっくりしません。
とにかく「もやもや」するのです。
元々、オカルト好きな所もあり、共感覚のような世界もあって良いと感じているさなか、私は神社で教えられた気になりました。
とにかく、何か怒られている気がするのです。
もしかしたら、自分の心の中にある葛藤だったのかもしれませんが、とにかく神社に行くと体調が悪くなるのです。
それでも、何となく通ってしまう自分がいましたが、今度は「気」を吸われる気分になるのです。
ある神社では、自分をはがされた気分になりました。
しかし、私はやっと気づきました。
それは「私は私なのである」という事でした。
私と言う人間は、例えば、自分が学んだ「哲学」の真理にのっとって成立しているのが本心ではなく、実は「私は私なのである」が真実だという事でした。
これを知った時に、私の中にある、神社に行くと「モヤモヤする気持ち」が和らぎました。
「私は私なのである」という気構えを身に着けると、神様と対等に面と向かって良い事を覚えました。
(ただ、格の違いは当たり前のように認識しています。)
私達の周囲には様々な自然が溢れていますし、犬や猫や鳥も近くにいます。
その動物は、面白いように人間になつきます。
しかし人間は特に、動物と接する際には上下関係を意識していません。
確実に、その動物と、私達は対面しています。
意識を対面しています。
これは、私達が神様と対面する事と同じだと感じたのです。
神様と対面できるのであれば、それは「神性」を持った人物である訳です。
「神性」を持つから、「神性」をもつ存在を認識できると言う訳です。
「神性」を持っているのであれば、人間、それは「神」と言って良いのではないでしょうか。
もし、人間が「神」であるのであれば、わざわざ神社に言って「お祈り事」をする必要があるでしょうか。
それは、職務についている神職さん達は必要でしょう。
私達が「神」であるとするのなら、「お願い事」があるのであれば、それを自分で解決する力と方法を、何かしら備えているか、または別の人間である「神」から助けを得るなど、きっと解決策はあるでしょう。
その解決策を得る行動も起こさずに、「お願い事」として自分を他者である「神」に預けてしまっては、自分の人生がもったいない。
自分の「神性」をふさぐような行為です。
他者に人生を預けた瞬間に、自分の人生は他者の言いなりになってしまいます。
私が神社に行って、神様と対面するのであれば、ただ自分の行っている状況を説明して、ますます栄えますと話すでしょう。
ただ、「うぬぼれ」を持って神様と接する気はありません。
それでは「個性」が薄れてしまいます。
しっかりした「自己」を保つことが必要です。
話をまとめますと、あなたは神であると言う事です。
あなたと言う自己をもった、あなた以外にあなたしかいない、尊い存在です。
その力と想像力は、この世界に現実として生きる糧を生み出します。
その糧を、多くの方々が分かち合います。
その分かち合いが、またあなたに帰ってきます。
内容的には「神様カテゴリー」でも良いかもしれませんが、この思想は危険かもしれません。
怒られるかもしれません。
私の日記の中に納めて置こうと思います。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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