こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
今回は「哲学カテゴリー」にて投稿したいと思います。
「シャルル・ボードレール 悪魔の正体 」の投稿でも書きましたが、私は「悪魔」が大嫌いです。
http://mahakara.blogspot.jp/2015/11/blog-post_27.html
「悪魔」の基本的な性格は、正しい行いを心がけている人間の操作を行う事です。
どんなに綺麗な顔をしていても、自分の立場を維持する為に、安易に他人の心を操ります。
私が危険視する「悪魔」のひとつに「学問」等の常識の存在があります。
特定の客観的な立場から導き出された論理的な産物という事を理由に、それは世の中で正しいと認識されます。
ただし、最も理解すべき事は、そうした産物は全て「生活世界」の体験を基礎として成り立ったと言う事です。
これはフッサールの概念で「生活世界」と呼ばれる概念です。
ざっと私達の「生活世界」には、様々な学問を包括している事を理解できると思います。
この「生活世界」がなければ、学問のような存在は生まれる事は無いはずです。
そして、この「生活世界」に生きる事で「経験」する事柄は、「生きた現実」として私達の中に残り続けます。
様々な感情事が、「生活世界」の中に展開され続けます。
つまり、「生活世界」こそが私達の基本なのです。
この「生活世界」で理解した心の世界の経験は、消える事は無いでしょう。
私達は、様々な「生」の道筋を「生活世界」の経験(生きた現実)として記憶に留め、進むべき道を決めます。
その道は平たんではなく、様々な「寄り道」という線をたどる事になるでしょう。
この「生活世界」の考え方は、このような全ての事象の事柄が、ここという世界にある事を意味します。
こうした世界の中で、一定の学問を見続けていると、もしくは一定の常識を見続けていると、「悪魔」という存在に操られてしまいます。
本当に「悪魔」は巧妙です。
「生活世界」の現実を見失った人間を操りはじめます。
操りやすのです。
それしか、そこしか現実が見えていないからです。
フッサールの概念である、この「生活世界」に目を向ける事が出来ていれば、それぞれの個人が、基本に立ち戻れる契機を与えてくれます。
基本に戻って自分の後ろを見渡した時、必ず自分の過去が見えるものです。
純粋な過去の経験を理解できるはずです。
決して、過去は自分の都合で書き換えられるものではありません。
また、「生活世界」に目を向けて未来を見据えるなら、その道には過去の経験(生きた現実)が不可欠になります。
私達が生きてきた人生に、どこにも無駄が無い事が理解できます。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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