前回の投稿の続きになります。
ざっと簡単に見て下さい。
まず1つに「神様」の世界に心を向ける事です。
つまり、「神様」の世界に心を向ける事が大切なのです。
これは現状のシステムを維持している「ディノテーション」の囲いから出る事を意味します。
何故なら、現実の世界ではない「非現実の世界」を知覚して認識しているからです。
これを「ハレ」と言います。
日常の現実世界から一時的にでも脱する事です。
ここでの目的は「脱する事」であり、「神様」の世界にのめり込む事ではありません。
2つ目として、「実存主義」を理解する事です。
これは「ニーチェ」の投稿を見てもらうと解ると思います。
規定された世界に真実を見て、その場所に落ち着こうとするのが人間であります。
これが人間の尊厳を失わせ、実存者としての個人を失わせます。
実存主義者としての自我があるならば、この激烈な流れの世の中を理解しているはずです。
そして、自分の正義を理解して生きているはずです。
3つ目として、これは来年以降に書こうと思います。
アラン思想における「シーニュ」の取り扱いについても、再度見直して、現実の世界に適用させて写し出す事も良いのではないかと感じています。
さて、今回も長い文章になりました。
「ディノテーション」の囲いの中の図だけでも、個人がそれに携わる世界から出る事が出来ない事を理解出来るはずです。
通常、この「ディノテーション」も時代と共に変化をするのですが、本当に明治以降を持って変化をしていない気がします。
世の中に対応できない「ディノテーション」であるならば、勝手に変化させるのが個人という記号(パロール)なのですが、これが機能できないシステムが散りばめられています。
現実に発生する出来事ばかり直視してはいけません。
例えば、プラトンが「イデア」の世界を世の中に現わしたのは、ピタゴラスの影響です。
http://mahakara.blogspot.jp/2014/01/blog-post_30.html
数学的な世界の大巨人であるピタゴラスの影響から「イデア」論が生まれているのです。
私達の現実とは、この数学的な、つまり「空想感覚的」な世界から有ると言うことです。
例えば、雪の上に寝転んでみた事を想像して下さい。
この時、雪の上に「あなた」の体の「形」が残るはずです。
そして、この「あなた」の体の「形」は現実に存在しているのです。
だから、「あなた」の体の「形」と理解できるのです。
ただし、その「あなた」の体の「形」には質量という重さはありません。
ただ、「形」という「イメージと言う実体」があるのです。
この感覚が大切なのです。
この世界は、絶対的に「物質」以前の状態から成り立っています。
私達が「想う」などの気持ちのイメージ「イデアの世界」には重さと言う質量はありませんが、現実として成り立ちます。
やがて、時を経て物質化するでしょう。
それが「世界」です。
だから、後半的な結果として表現される現実世界で、その現実の観察や思考の先行きを見続けていても、実際には遅れをとるか、意味をなさないのです。
http://mahakara.blogspot.jp/2015/01/blog-post_12.html
しかし、この感覚が無いと、どうしても現実ばかりに目を向けてしまいます。
現実に発生する出来事の多くは、この「イデアの世界」で体感している事を現実に表現している事は多々あるはずです。
だから、「エロス」の感覚を持って、常に高い位置に目線がある事が肝要になるのです。
http://mahakara.blogspot.jp/2015/11/blog-post_18.html
過去の哲学者の知恵であります。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
0 件のコメント :
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。