こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
本日は「日記カテゴリー」にて投稿します。
今年も数日で終わろうとしています。
そこで少しだけ、私の持っている思想で世の中を振り返ろうと思いました。
実は、ずっと以前から気にかけている事があります。
それは、私が学生だった数十年前から、世の中のシステムが変化していない事です。
そのシステムとは「教育」であり「会社」であり「家庭」であります。
もちろん、単一的には変化をしています。
世の中は、激変してきました。
プログラムの分野で例えても、様々な言語が生まれました。
世の中は、例えようもない変化を送り続けています。
その為、自分で正しいと感じて学んだ事が、数年後には古い知識になっています。
プログラム言語が、その良い例えです。
プログラム言語なら良いのですが、私達が普通に生活している社会が激変を続けています。
この社会においても、自分が今現在に正しいと思った事が、数年後には古い知識になっています。
それよりも、新しい知識や行動が蔓延し始めます。
それにも関わらず、「教育」であり「会社」であり「家庭」というシステムは変化を見ない場所が多々ある訳です。
さて、この写真を見て下さい。
普通のジェットコースターの写真ですが、私達はこのような世界を過ごしています。
ジェットコースターの座席にすわり、激走しながらレールを走り続けるスリルを楽しんでいます。
ジェットコースターに乗っている限りは、その座席から降りようとはしません。
ただ、やがて停止する事を知っています。
ところが、停止する事を知っているのに、ジェットコースターから降りようとはしません。
意識のどこかで、ジェットコースターから降りると死ぬと思っているからです。
ならば停止している時に降りれば良いのですが、停止が理解できません。
それは世界のシステムが変化を続けていても、自分が体験している現実の世界のシステムに変化を感じていないからです。
以前に投稿しました「ディノテーション」を例に致します。
「ディノテーション」は、私達の生活における一般的な常識の範疇を現わします。
私達は誰でも、この「ディノテーション」の中に生活をしています。
そしてこの「ディノテーション」の内部には、人間の目には見えませんが、様々な記号が散りばめられています。
この記号の事を「シーニュ」と言います。
私達が知覚して判断する、認識する対象とは、この記号である「シーニュ」を介して行われます。
「シーニュ」はジェットコースターであり、座席であり、隣の他人であり、その他人の表情であり、レールであり、その環境を構成する最小単位です。
この記号の空間を、私達は知覚して理解して、そして想像力を持って現実という世界を映し出しています。
その為、この「ディノテーション」の囲いの中から出る事が出来ません。
何故なら、私達はこの「ディノテーション」の中にある記号「シーニュ」以外を知覚できませんし、理解できないからです。
世の中のスタイルが激変すれば、通常「危機感」を感じて、何かしらの働きが生まれます。
しかし、今の日本では労働環境を見ても、その傾向はありません。
教育も同じです。
「ジョン・デューイ」などが体系づけたモデルのままです。
教師は生徒に何を教えているのでしょうか。
役に立つことを教えているのでしょうか。
いや、教師そのものも、世の中が変化しているのに変化していない気がします。
家庭はどうでしょうか。
やはり、同じ事が発生しているはずです。
この様態で犠牲者となるのは、世の中の変化を理解しているにも関わらず、その変化を告知しても理解してもらえすに消えてゆく方々です。
この消えてゆくという意味には、廃人になるという意味も含んでいます。
では、現状のシステムを維持している「ディノテーション」の囲いから出る事は出来るのでしょか。
それは可能です。
次の投稿に続きます。
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