こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
今回は「哲学カテゴリー」にて投稿したいと思います。
しかし、哲学についての考察ではありません。
鶴見俊輔さんが亡くなられたようです。93歳であったそうです。
鶴見俊輔さんについては、このブログ内でも投稿しておりますが、誰にも解りやすく、親しみやすい哲学でありました。
哲学とは、言葉は難しく聞こえますが、本来は単純に私達と関わり合う「良く生きる為の知恵」であります。
教育や芸術や社会などに対しての、良く生きるための知恵であります。
鶴見俊輔さんは「ベトナム戦争」に反対するのであれば、「ベ平連」という組織を活動としますし、実用的な哲学として「プラグマティズム(道具主義)」も紹介しました。
哲学と言う道具を解りやすく、実践の生活の中に示された方であると感じます。
その為に、親しみやすい感覚を覚えるのです。
現在、「ベ平連」に参加していた「小田 実さん」のような、人間味の溢れる方々ばかりではありませんが、粛々と日本の国の中で「デモ」という運動が発生しております。
私はこの運動に対して、意見を述べる事を避けておりましたが、私の世代には展開されなかった人間の運動が展開されております。
(私の世代は、人間味が欠けていたと表現すればよろしいでしょうか。)
鶴見俊輔さんが若く、そして元気であったら、現在行われている「デモ」を行っていたと感じます。
ただしかし、鶴見俊輔さんらの場合には、行動をする上での武器となる「知恵」を持っています。
哲学の事です。
そこで、私には現在に発生している「デモ」の運動に対して、哲学を感じえません。
感じる事は「未来への希望」であったり、「国家の行く末」や「立憲国家に対する挑戦」などのプラカードです。
私には、「ベ平連」の鶴見俊輔さんや、小田 実さんのような「哲学」を持った、集団には見えません。
こうした「哲学」を持たない運動集団は、決まりが付かない終焉を迎える場合が多いです。
何故ならば、例えば「未来への希望」、「国家の行く末」、「立憲国家に対する挑戦」といったプラカードは、全て見えない未来に対する行動です。
しかし、鶴見俊輔さんや、小田 実さん達は、その未来に足を踏み込んでいた方々です。
「戦争」であるならば、いかにバカバカしい事を知っています。
その終焉を知っています。
日本の場合、終戦して時が過ぎ、多くの方々が「サラリーマン」になりましたが、小田 実さんから言わせれば「子供の夢がサラリーマンなんて止めてくれ」と言っていました。
鶴見俊輔さんや小田 実さんは、世の中に落ち着く気配がありませんでした。
普通、人間は自分の都合の良い場所に落ち着こうとするものです。
こうした特性を持った人間が、「哲学」という道具を持ち合わせないで「デモ」などの運動を行っても、その先の結果は見えていると感じませんでしょうか。
私には、鶴見俊輔さんらの純粋な哲学(生活に密着した知彗)が蔓延しないと、希望を持った「デモ」などの運動にはならないと感じています。
故に、鶴見俊輔さんが死去されたニュースを見まして、ガックリしました。
多くの若者に知って頂きたい方でした。
必ず、これから生きる方々の「肥やし」になる生命力を与える方でした。
ご冥福をお祈りいたします。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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