「言語学」という分野があります。あまり聞きなれない学問だと思われますが、
私が「知識を道具として使う」心の手段の一つでもあります。
ソシュールが言語学で「ラング」と「パロール」と言う規則を存在させました。
理屈は簡単なのです。
「ラング」とは、文章、もしくは作文です。
「パロール」とは、個人が言葉を発したり、行動に移す手段。
例えば読んだり書いたりの作業になります。
このように理屈は簡単なのですが、「へぇー」と思う部分をこれから書き残します。
例えば、「共産主義」とは何ですか?
普通の人ならば、「全体主義で、マルクスが始めてレーニンが・・・」等に答えるでしょう。
私的に表現しますと、「共産主義」とは「作文」です。
(★´-ェ・)何ですか??
「共産主義」という全体は「作文」であり、その中に生活する人々は「文章」であり、
「個人」とは単語です。
「個人」が文章(ラング)の一部となって国家という作文体をまとめます。
作文は「単語」なしにはあり得えません。
しかし、「単語」という個人は全体国家(ラング)の一部分にすぎない為に軽視もされてしまう。
(極端に言えば、長い文章で単語が無くても意味は通じますでしょ。
だから、個人が国家内で殺されても、国家(ラング)として崩壊する事がないんですよ。)
共産主義は科学的な思想から生まれた「ラング」です。
こんな文章を書いたら怒られるでしょうが、私的な捉え方です。
ところが窮屈にならないのが人の世であります。
時と共に「文章」の読み方や捉え方は変化してきます。 「パロール」の出番です。
国家体が規定されているにも関わらず、必ず時と共に「変革」が発生します。
ソビエト(若い方は解らなかもしれませんが、昔は共産主義の集まりとしてあったんです。)は、
変革の中で崩壊をしてしまいます。
国家体が規定されているにも関わらず、何故かそれを打ち破る状況が発生する事があります。
この打破を発生させるのが、個人である「パロール」です。
通常ですと、文章に沿った単語にすぎない個人が、国家という文章内で取り決められた事以外は出来ません。
ところが、ソビエトは無くなってしまいました。
「ラング」って何?と思いませんか。
「ラング」とは確かに強大な「国家」であり、私達の文化を形成している存在です。
ところが、この強大な存在は、「個人」という「差異」によって存在しています。
個人(パロール)があって、初めて「ラング」は存在できます。
人の文化は、歴史を通じて常に変化を向かえます。
引き継ぐべき良き文化も内在していますが、
個人の活動が時として変化すると平行して、文化も変化します。
作文の説明を通じて、「パロール(個人)」が「ラング(国家)」を
変化させる能力はありませんが、この作文も常に同じではありません。
もし、作文内の単語の意味が時と共に変化していけば、何が起こると思いますか?
作文内の単語の意味が変化してしますと、文章として成り立たなくなりますよね。
これが、時間という歴史の中では発生してしまうのです。
そして「時代遅れ」という体感を私たちは認識するのです。
(だからこそ科学的な国家である「共産主義」は国家として持たない状態になるのです。)
「ラング」は国家という枠組みに留まりません。それは私達の文化全般に発生しています。
会社では「目標」を掲げたり、変わった服装や髪型の流行であったり。
レストランの決まったメニューであったり。
しかし、それらは時と共に「パロール(個人)」によって変化してゆきます。
「ラング」は文体であり行動できませんが、「パロール」は動体で変化を促します。
最近、なじみの服屋で買っている「M」サイズが着られず、「L」サイズを購入しています。
体の大きさは変わらないのです。何らかの影響で「パロール」が「ラング」という規則を変化させた為です。
「パラダイム」の所でお話しした部分ですが、時代を生きて来て、その時代ごとの「意味の取り替わり」を多くの方々が経験されているはずです。
常に法律が大きく変わらなくとも、私たちの生活は激変を迎える。
しかし、私達は意味をもった存在です。そのように意識していないと作文の中に閉じ込められてしまいます。そして本来は動くべき世界が動いてくれない状況になってしまうと思います。
ニーチェの所で書き残した事ですが、「生」を実感する事が鍵であると思います。
「感動」できる現実にどれだけ出会えるかが必要であると思います。
またしても、教えぶった締め方をしてしまいました。
少しでも、私の知識がお役に立てられたら幸いです。
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