アランの思想「美」

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

今回は「アランの思想「美」」について投稿したいと思います。

 

さて、前回のアランでは「想像力」について投稿しました。

アランは「思考の変調」とも言っていた覚えがあります。


思考ですが、「怒り、愛、野心、吝嗇」などと言った物は思考の変調からくると言っていた覚えがあります。人間の思考という物は、アランにとっては「機械」のような存在であるかもしれません。

「情動」が「情念」に変わるとき、そこに「想像力」が働いて心像に世界を描きますが、この推移を安易に許してしまう暴走が、「思考の変調」であるらしいです。


「情念」にのめり込んで、そこから脱出しようとして思考を働かせたとしても無駄である。思考には「しるし(シーニュ)」を見つけたりする機械的な作用しか備わっていないからである。


 

ではどうしたら、情念にかられた錯乱の状態から抜け出せるのだろうか。

 

そんなときは行動をすればいいのです。


例えば、「野心」にかられて「盗み、破壊」等を犯せばいいのです。そうしたことで「情念」は浄化されます。錯乱状態を一時的に回避できます。

 

しかし、これではあまりに酷すぎます。

いや、やってはいけません。

 

これとは別な方法として、知的な手段として「歌」を歌ってみればいいときもあります。「情動」の恐怖によって「想像力」が生まれ、「幻惑の世界」を「真実」ととらえるから、この場合は「野心」を生んだのです。

もし、恐怖を追い払うために歌をうたっていたらどうなっていたでしょうか。もしかしたら、盗みや破壊は犯さなかったかもしれません。


つまり、「美」に身をゆだねることで、人間は幸福であることができるのであります。

 

「美」には幸福という存在が待っている事になります。

アランの「美」とはこうしたものですが、「美」とはつまりそんなにきれいな物でないことが解ると思います。

「美」は「情念」を浄化しますが、浄化すると言うことはそうした「情念」の様々なサンプルを含んでいるわけです。

だから一般に芸術作品には、捕らえようの無い、何か毒々しい、「何か恐ろしい物」が含まれている事になります。

多くの人間は、その「美」の中に入って自らの「情念」を浄化します。「美」というものは、「感情」を、救済された「感動」を内容としてもっていなければならず、それにはまず険悪な騒乱としての「感動」があって、それがやがて沈静と解放に変わることが前提となる・・・とアランは言っていたような。

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

0 件のコメント :

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。