ジャック・デリダ の言葉 「脱構築」(前編)

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

今回は「哲学カテゴリー」にて投稿したいと思います。

 

ジャック・デリダの「脱構築」についてです。

 

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photo credit: saucy, saucy jacques via photopin (license)

 

前回、「形而上学」について触れましたが、この「形而上学」はギリシア哲学より発生したものでした。

それは「プラトン」であり「アリストテレス」でありました。

ヨーロッパ的な真理の追究は、確実に「答え」が用意されていています。この感覚は、この投稿を見て頂いている方にも判ると思います。

 

誰でも、「答え」があるから、「問い」を求めるのです。

「答え」のない行動など、どんな人間でもしないでしょう。

 


例えばです。「お腹が空いたので、何か食べたい」と思う時、論理的に何か食べたい欲求があるはずです。

論理的に解釈できます。


この論理的な解釈が通じないのなら、「神」の世界を言葉に表せば良いです。

想像できるはずです。美味しい物を沢山食べている「イメージ」をです。


「イメージ」の世界はプラトン的な「イデア」の世界です。

「イデア」の世界は、神のエリアです。

神のエリアを使っても、言葉として論理的にお腹が空いて、何かを食べている事を説明できます。

 

あらゆる主義主張は、通常ですと「答え」について人間を従わせようとします。

 

また、多くの人間が「結果」を想定して、美味しい物を食べたりします。

 

こうして見ると、世界と言うものは「構造」があり、論理的に解釈できる世界であるように見えてしまいます。

 

ところが、「結果」が想定された世界があるとすると、それは映画館で映画を見ているようなものです。


現実に対して「消化できる意味や結果」が映画のように設置されているなら(これが空想的(形而上学的)ですが)、人間の営みとは平坦なものであると言えるでしょう。

映画館で見ている映画の「始まり」と「終わり」の連続の中に、我々があるようなものです。


本当に、我々の営みとは、「科学的論理」等、もしくは「形而上学」的に解釈をして完結できる世界でしょうか。


この一般的な「問い」に対する「結果」が論理的に想定された世界の常識の在り方を、角度を変えて見ようとするのが「脱構築」の在り方なのです。

 

次回は、中編にて「脱構築」について簡素に説明文を投稿したいと思います。

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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