こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
前回の続きになります。
デリダが、「脱構築」を目指した背景を投稿したいと思います。
photo credit: Genealogy via photopin (license)
ヨーロッパで一般的となった常識の在り方。それは、ギリシア哲学的な形而上学であり、論理学です。
論理の上に答えという結果を求めますが、それでは映画館で映画を見ているに過ぎないと、前回はお話しました。
人の世とは、安易に「問い」や「疑問」に対して「答え」や「結果」がある訳がありません。
そんなに「確率的」とか「論理的」という言葉を使って対峙しても、実は「答え」は出る訳ではありません。
こうした現実と、まず対峙したのが「フッサール」でした。
http://mahakara.blogspot.jp/2014/07/blog-post_21.html
「フッサール」は現象学という分野にて、「人間が意識の中に取り込んで、最も安定した形として表現するのが言葉」である」としていました。
これは説明しますと、私達の意識に直接に飛び込んでくる現実は、まぎれもない真実です。
まじれもない真実は、私達の体現する意識を通過して言葉になった時に、その言葉が真実であります。
決して、論理的に説明される世界観が最初にある訳ではないのです。
「フッサール」は、この過程を大切にする訳です。
ところがです。「デリダ」は「フッサール」も間違っているように見ています。
まず、デリダ的な言い方で現前(感覚や直感など)として意識に表れるものが、フッサール的な最初の部分ではないのです。
最も最初の部分は、実は「言葉」なのです。
デリダは、まず初めに「言葉がある」と言います。
例えば、「お腹がすいたなぁ」と思う時は、お腹が空いているのです。
何故でしょうか。
理由としては、胃の中に何もなく、12時という昼時かもしれません。
きっと、このような経験は死ぬまで反復されるでしょう。
ここが肝心な所なのです。
後編へ続きます。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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