こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
今回は「哲学カテゴリー」にて投稿したいと思います。
この概念はドゥルーズとガタリが述べていた論です。
まず、「コード」という言葉ですが、基本的には「欲望の生産のかたまり」のような事であると見て下さい。
ふと、我に振り返って見て、そこに確かめて頂きたい事があります。
自分の中に、本当に「欲望」という物は存在していたでしょうか。
まず間違いなく「欲望」は社会と言う外界があるから、それを知り、身に着けたものです。
つまり、社会という存在に組み込まれたものが「欲望」であります。
そうしますと、私達がその世界に組み込まれますと、その「欲望」を処理する「機械」のような存在になります。
そうなりますと、今でも存在しています「未開発社会」のジャングルにおいて、「女性」を「貢ぎ物」として交換する事が当たり前である事になります。
その社会を否定する事は出来ないのです。
理由は、「女性」を「貢ぎ物」として交換する「欲望」の社会において、機械化した自分を否定できない「コード化」された世界に組み込まれているからです。
しかし、こうした社会も別の大きな国家が飲み込み始めます。
そうなりますと、その国家の思想下に統治される事になります。
すると、その国家の「欲望」が自然と国民にインストールされます。
これを「超コード化」と呼んでいます。
私達を取り巻く、この「超コード化」を示すものが「資本主義」であります。
多くの方が、現在においては資本主義の信奉者であり、富を得る事を望んでいます。
しかし、この「欲望」は「資本主義」という「世界の欲望」に組み込まれている為に、つまり「超コード化」されている為に錯覚している現象にすぎません。
故に、本当に私達が「私達の在り方」を望むのであれば、この「コード化」から逃れる為に、「脱コード化」する必要が出てきます。
このようにドゥルーズとガタリが展開するのですが、私が現時点で思える事は、若干ずれています。
解りやすい例で、よく「プラトン」の「イデア論」を上げるのですが、「イデア論」的に言えば、この「コード化」された世界は「思い込み」に過ぎません。
いや、実際に展開されている世界こそ「コード化」された世界です。
しかし、この視点は対象となる「コード化」を見ているに過ぎません。
今、私の目の前に「おーい お茶」が置いてあるのですが、この「おーい お茶」について考えを巡らせても、答えは出来て来ません。
それは「おーい お茶」が完成品として存在しているからです。
この完成品の存在に対して色々な意見や思想をぶつけても、「おーい お茶」の存在は変わりません。
もし変えるとするなら、「おーい お茶」を手掛けている方々にアプローチする必要があります。
この手掛けている方々は「おーい お茶」を作る際に、実際に現物として存在していない「おーい お茶」を模索して、現実に作り上げました。
変化を見据えるのであれば、このように現実化する以上の世界の視野が必要なのです。
この視点こそ、私が欲しています世界です。
この視点で「おーい お茶」を見ないと、現実には「おーい お茶」は誕生しなかったのです。
私達が当たり前のように生活している現実には、様々な「欲望」が張り巡らされています。
それは「進学しないと将来がない」や「就職できないと明日がない」や「結婚しないと社会的な安定はない」など、例を上げれば枚挙がありません。
ただしかし、この「欲望」は社会に「コード化」されたものであり、本来は悩む問題ではありません。
では何故に悩むのか。
ひとつ目は「社会」の「コード化」の中に生活しているからです。
ふたつ目は「イデア論」的な視野がないからです。
もしも、この社会が「携帯できるお茶」の必要性に迫られても、「イデア論」的な視野がなければ誕生しなかったはずです。
さて、現実はこの「コード化」された社会の「思い込み」に過ぎないのです。
ところが、教育熱心なご両親や、裕福な将来の為の現実などを教える方々の教えを受けた人間は、いまだにその現実を受け入れ続けるか、もしくは現実化できなくて「引きこもる」などの心的な圧迫感を受け続けているはずです。
まず、第一に知って欲しい事は、この世界は「欲望」が「コード化」された世界であり、その中に人間が組み込まれて生活していると言う事です。
万が一、その社会に生活していて途方もない「自己喪失」に追い悩まされているのであれば、実は悩む必要はなかったのです。
現実を直視する前に必要な事は、その現実になる前の段階である視野が必要なのです。
その時に、自分には何が大切であるのかが見えてくるのです。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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