誰にでも起こりうる魂的疲労

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

今回は「日記カテゴリー」にて投稿したいと思います。

今回は非現実的なお話です。

 

私は自分の人生の中で、事ある事に「欲」について悩まされました。

仏教的な言い回しですと、「執着から脱する」と言う事です。

知らない間に、この「執着」に心が奪われて、心が疲れきっている事が良くありました。

 

しかし、見えない「執着」の例がございます。

それは「責任感」です。

 

きっと、多くの方々が社会的な責任感を背負っていると思います。

そして、それは「魂」が背中にくっつく様な、息苦しい背中の肩こりなど、重圧感に苦しみ続けている方々が多いと思います。

 

明らかに、自分では経験上、解かっていて間違っていると知っている事柄を、わざわざ繰り返すように、社会的な立場において行わなければならない事が多々あると思います。

そして、その責任感から「占い」や「宗教」や「セミナー」などに目を向けたりするかもしれません。

自己を超えた力を直視し始めるかもしれません。

 

私も経験上、やはり超人的な力や「ご加護」を願う事が多くございます。

何故なら、人知を超えるような出来事や、そのような理性では対処できないような方々と接する機会がある為です。

 

私は、ある時ですが、目が見えにくくなりました。それは「現実」は見えているのですが、見えてる気にならないのです。

不思議な感覚ですが、心にブラインドカーテンがかかった様に、現実が見えないのです。

こうした状態は、高徳のある寺院などに行けば晴れるのですが、やはり肉体的に異変が発生し続ける訳です。

 

私は、こうした状況下の中で、さらに何とかしようと様々な書物をあさりました。

常に疲労感に悩まされていましたが、書物をあさる事を止めませんでした。

新しい発見があれば、それを行い続けました。

 

そうしていると、やがて他者との会話に不自由を感じるようになりました。

私自身は疲労だと感じていましたが、どうやらそうでは無いことに気が付きました。

例えば、他者に話す感覚が、一定の内容に収まるように出来ていないのです。

それが、自分にはおかしい事であると理解できないのです。

 

そこで神社にお祓いに行こうとしますが、どうも神社が自分を追い払っている気にもなってしまいました。

 

ある時、ふと自分の足元を見ると茶色と白色の混在した大蛇がイメージに見えました。

蛇があちこちに見えました。うじ虫のような、細かい蛇も腕の辺りに無数に見えました。

 

もう、この文章は科学的な文章ではありませんが、その情景を見た自分は、すぐに自分が行ってきた、書物のあさりを止めました。 

 

私が自分の非科学的な経験で申しますと、「執着」という物に対しては、それが社会的な責任感であろうと、「欲」に似た結果が出てしまいます。

 

魂が肉体に接着剤のようにくっ付いてしまい、身動きが出来なくなり、息苦しさが発生し始めます。

常に慢性的な肩こりや背中の痛みが続きます。

 

私の場合ですと、私の周囲に理解不能な方々が沢山いらっしゃいますので、自己を守ろう、そして、しょうがないが、ささやかな責任感が関係して、こうした状況になっていました。

 

私は、しばらくの間は、蛇が見えていました。

蛇とは、力の元であるとも言えるかもしれません。

蛇から大きなエネルギーを頂いているのかも知れませんが、蛇から自分のエネルギーを奪われているのかも知れません。

私は、そんな気が致しました。

 

さて、その後のお話です。

いつもご参拝をさせて頂いている神社に普通に行きまして、いつもなら、さほど感じないのに、ご参拝後に、付き物が取れた気配を感じました。

これは本当にびっくりした事でした。

明らかに、魂と肉体の粘着が取れ始めました。

さらに、よく行く神社に向かいました。

このブログをご覧になってる方でしたらお解かりですが、あの神社です。

 

 

誰でも、霊的な事象は見て感じる所があるはずです。

解かりやすい所で言いますと、「自分の優位性ばかり」目立つ人です。

これが他人に対して礼儀も無い勝手な振る舞いが増えますと、やがて「背筋」が曲がって、何か背負っていると明らかに解かるようになります。

異様な人相と風貌を現します。

 

しかし、同様に「責任感」を背負わされる方々も、その魂は疲れるはずです。

疲れているのに、さらに追い討ちをかけて周囲がさらに理解を示さずに、その疲労を加速させます。

 

「責任感」のある人達は、超人化しますが「魂」は悲鳴を上げ続けています。

そして、自分が知っている神社や寺院に向かい、神様と一体になろうと思ったりします。

 

ご真言などを、自分と一体させようとします。

これが間違いです。

あくまで、神仏とはご加護の存在であります。

ご指導していただいている存在です。

この一体化こそ、執着です。

神仏もさることながら、「経典」や「祝詞」の類も自己の中に収めるものではなく、それを使わせていただいている感じが良いのです。

一体化や、救われると目指す「独占欲」は「執着」です。

 

別の所では「セミナー」の類です。

あり得ない、自分が見ることの出来ない他人の語る世界を感じ入ってしまいます。

 

こうした努力も、その方の力であれば良いのですが、私のように「蛇」であるのなら、生命を消費し続けるだけであります。

つまり蛇を呼び寄せるような、異様な雰囲気を知らない間に作り出してしまうのです。

 

私には運よく、それを理解して祓う事の出来る環境という存在を理解していましたので何とかなりましたが、エスカレートしていれば怖いことになったと思います。

 

誰にでも起こりうる魂的疲労ですが、完全に非現実的なお話です。

それが、どのような場合にも「執着」が関係してくるでしょう。

まさか、「正義感」や「責任感」が執着として障害を及ぼすとは考える事は無いかも知れません。

つまり、あまり大きく考える事は無いかも知れません。

しかし、それが命に関わり、病気に関わり、他者にも関わる病となるのです。

 

「薬」や「セミナー」で救われる事はありません。

 

「執着」に気付き、「執着」を手放す必要があります。

そして、今行っている作業があるなら、別の手立てを考える必要が出ます。

 

「執着」により、大きな大金を手にする事も出来るかもしれません。

「執着」によって、別の何かを手にするかもしれません。

 

しかし、「魂」の疲労を感じているのであれば、要注意です。

「人」としての魂が見えなくなる危険があります。

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。