私が思う 「オルタナティブ・テクノロジー」について

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

今回は「哲学カテゴリー」にて投稿したいと思います。

 

このブログですが、初めは「哲学」を主体とする事を念頭に置いておりました。

しかし、人気投稿を見ますと、「哲学」がないのです。

哲学は、生活を豊かにする手助けとしての知恵ですので、これからも展開したいと思います。

 

さて、「オルタナティブ・テクノロジー」についてです。

この「言葉」について投稿しようと思った理由は、よく駅などで見かけます「原発反対運動」が気になったからです。

原発反対を熱心に推進する方々は、その危険性を知っております。

しかし、私達の生活は原発を必要とする所もあります。確かに、原発に関するウランという資源の高騰があった場合の事や、管理の問題や廃炉処理などの後始末を考えますと、決して原発が安いものとは言えません。

しかし、原発を持つ理由とは、それだけではないでしょう。これは兵器にもなります。(原発については、少なからずどこかで投稿したいと思っています。)

 

そんな原発ですが、私達は原発に限らず、様々なテクノロジーの中で生活をしております。このテクノロジーを利用しておりますが、同時に支配されています。

そんなテクノロジーですが、例えば原発というテクノロジーが、私達に合っているのでしょうか。

 

基本的な考え方としまして、「私達の生活にあっている」という事が大切です。

そのテクノロジーが「適切」であるのか。

「適切」であるテクノロジーに「電球」や「電灯」が上げられるかもしれません。

この「電球」が「LED」になったとしても、私達の生活には変化はありません。

太陽パネルも同じです。 

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photo credit: marshalltownpubliclibrary via photopin cc

 

こうした「適正技術」という考え方があります。

 

では、原発は「適正技術」であるかですが、明らかに「適正技術」ではありません。

では、この原発にとって変わるエネルギーはあるのでしょうか。

 

こうした、第三者としての存在を考える言葉が「オルタナティブ・テクノロジー」と言う言い方です。

今までの原発依存社会から離脱しようとするなら、離脱後のエネルギー供給のあり方を示す必要があります。

まさか、「石油」や「石炭」を枯渇し続ける事に対策を模索しようとは考える人は少ないでしょう。

故に、現状の日本での電気需要をまかなえる新しい発想や、技術である「オルタナティブ・テクノロジー」という存在は、大変難しい問題であるのです。

 

ただ、こうした「オルタナティブ・テクノロジー」という言葉を扱えるかで、また、行動する方々の姿勢というものは変わるでしょう。

 

よく政治家が「アジェンダ」とか、そのような今までに聞かない言葉でまとめる時があります。

これと同様です。誰もが、単純に「石油」や「石炭」へ変更しようとは思えません。

私達の生活が、現代のテクノロジーに支配されている限り、難しい事です。

 

では、どんな技術をもって打開を探るか。

その技術のあり方が「オルタナティブ・テクノロジー」という言葉なのです。

 

駅前で原発反対運動を行っていても、「オルタナティブ・テクノロジー」が明確に解りません。

逆に、原発を推進している方の意見を見ましても、「オルタナティブ・テクノロジー」を明確に感じません。

原発を推進するなら、原発が私達の生活を安全に保つための「オルタナティブ・テクノロジー」が必要です。

言葉とは有難い物です。こうした「オルタナティブ・テクノロジー」という言葉の意味が知れ渡れば、「オルタナティブ・テクノロジー」に当てはめる「適正技術」を探し始める契機になるでしょう。

 

その後ですが、万が一に原発に対する「オルタナティブ・テクノロジー」が出るのであれば、次は「ラディカル・テクノロジー」という言葉につなげます。

 

「ラディカル・テクノロジー」は、私が良く言います「道具としての使用」です。 

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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