こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
今回はメルロ=ポンティの「知覚」についてです。
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前回、「意識」の説明を致しました。これ、実は私的にアレンジしています。
メルロ=ポンティの「知覚」とは、厳密に言えば、「現象を明確にする」事です。
「意識」って、明確ですか?違いますよね。
しかし、この「意識」の説明の壁を乗り越えようとした人物です。
メルロ=ポンティですが、この方は「身体」を重視していました。
単純な事ですが、「身体」そこ、この世界を「知覚」できる存在なのです。
すっと昔から、この世界は「精神」と「物質」から成り立っていると
思ってきました。あなたも、そうではありませんか?
この世界に「精神」と「物質」以外に何があるでしょう。いや、あるんです。
この「精神」と「物質」を知覚する存在、「身体」があるのです。
ところで、メルロ=ポンティはどうしてこんな考えを持ったのでしょうか。
(それを言うなら、何故、私はメルロ=ポンティを知ったのでしょうか。)
私の哲学の基礎は、哲学者「アラン」の著作物を読んだ事に始まります。
「アラン」を読解する際、「コギト」という言葉に出くわします。
「コギト」とは、何か。
これは「デカルト」という哲学者の言葉です。
「我思う、故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」という思想があります。
では、ここで言う「我思う」とは何であるのか。
メルロ=ポンティは、それが「身体」であると位置づけたのです。
(「知覚=我思う」と見てください。)
「精神」と「物質」の間にある存在としての「身体」。
この身体が知覚する事で、この世界の現象を明確にとらえることが出来る。
「精神」の世界と「物質」の世界を捉える機関ですね。
決して、「精神論」や「物質論」に片寄りません。
あなたが「知覚」する肉体を通じて、あなたは判断できるのです。
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(この身体を、メルロ=ポンティは「精神」と「物質」を理解する「両義的」な
存在であり、認識を発生するものとしていました。)
(昔、古本屋さんで哲学書の立ち読みをしていると、「身体」を意識化した
「身体のコギト」 なんて書いてある書籍も見かけました。)
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私は前回、この「身体」を「肉体」と表現して、これが「意識」であるとしまいた。
実は短絡すぎるのでしょう。
メルロ=ポンティは、この「意識(我思う)」を過去の抽象的な意味から切り離す為に
「身体論」を用いたと思います。
「身体」なら、確実に誰が見ても解りますしね。
しかも便利なもので、「身体」はコミュニケーションツールのようで、他者と理解しあえるようです。
これって、「意識」って言いませんか。
まぁ、つまり「身体のコギト」という立場になるのです。
そしたら、「意識」でいいだろうと言う事で、
私は肉体を「意識」としました。
「身体」と言いましよう。
この世界には、身体を取り巻く様々な情報(記号)が飛びかっています。
その「記号」を「身体」は受信して「言葉」として感情に表します。
故に、私は身体を重視します。軽んじて知識に没頭する事をしません。
自分が知っているだけのマニュアルに頼りません。
第一の基礎は「身体」であり、「身体」が常に経験を行い、記憶に留めてゆく。
頭が「記憶」なら、意識はどこだ。そうだ、身体だ。
「我思う」の機関は身体だ。
まず、私のブログでは、そう捉えてください。
後々、いろいろな説明とくっつくようにしてゆきます。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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