カントの言葉 「主体と客体」



カントです。

カントの著書を読んで、その中で記憶に残っている想いのある部分を書き残しておこうと思います。
ブログに書いているにも関わらず、私にはカントの哲学について、その深い部分については良くわかりません。しかし、カントから影響を受けた言葉は、私の中で大きく生きています。





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カントもネットで調べて頂ければ、すぐに色々な事が解るでしょう。



●「主体と客体」

カントの、どの本で読んだのかも忘れてしまいました。しかし、この記憶は残っています。



人間と自然がこの世にはあります。人間は自然の一部と捉えるのではなく、「人間は人間」であり、「自然は自然」という別物であると考えます。

人間は自然の中で単独で生きる事が出来ません。仕方ないので、林を切り裂いて、家を建てて生活を行います。自然の一部であれば、別に林を切り裂く事も、家を建てる必要もないはずです。しかし、人間はこのように、自然から独立した存在にならないと生きてゆけないのです。

この人間を「主体」と言います。

人間が単独で生きる事のできない別の存在こそ、「客体」と言われる自然です。

カントは、明確に分割していました。

「人間は何であるか」を明確にする為だったと思います。

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ここからは私的に、私的路線に話を展開して行きます。

類似語ですが、「主観」と「客観」という言葉があります。

会社で上司に「お前は客観的に考える力がない」など怒鳴られたとします。

「客観」とはどんなことか。私にも部下の方がおります。よく、仕事上で問題に直面する時、やはり「主観」で考える傾向があります。

私は「客観的に」と接しても、まるで「第三者的な」のようなニュアンスになり、物事に「私」である「主観」を突っ込んでしまうのです。

そこで、カントの「主体」と「客体」の話をした事があります。とにかく、自分とは別の「物事」や「相手」を違う存在であると捉える事。そして「客観性」を大切にする事。「客観」とは徹底的に「主観」を排除して、そこに残る現象を見つめれば良いのです。科学的な思考です。

その時、そこに何が見えるか。感情を持って感情で解決を見出そうとしても、うまくゆきません。感情という「主観」の産物が残らないほど、現象に対して機械的になるのです。

部署内でケンカが起こりました。相手同士は「客体」であり、「客観的」に見つめれば、ケンカを抑えられます。客観的視界に主体という感情は無いからです。しかしながら、どうしても感情的にぶつかり合います。お互いがぶつかり合う「主観性」を「客観的」に見てあげて、理解しあえば良いのです。しかしながら、「主体的存在」をコントロールしきれないのです。

主体を保つ事は素晴らしい事です。そうしないと、自然の中で生きる事が出来ないからです。

人間は「主体」と「客体」の存在を知っています。「客観的思考」、つまり「科学的思考」で文明道具を高度にして、自然に対して独立した存在を継続しています。

人間は「主体」と「客体」を理解してコントロールする事が出来るのです。


感情的にならなければ、どれほどの方々の意見や気持ちを受け入れて入れただろう。もっと成長できていただろうに。

実はそう思う時があります。


故に、私は出来る限り「知識」という物を「道具」として扱い、自分の主体を出来る限り「自由自在」にしていたいのです。

日常生活の中で、出来る限り相手を尊び、「五徳」をもって接していたい。(五徳とは、「仁」「義」「礼」「智」「信」の事です。)

いつも笑いがあり、人間を不安に陥れる問題は客観的に対処して、自分という「主体」を侵さないように心掛けています。

私はこの「主体」と「客体」の捉え方に、大変助けられました。


人間だけが、 「主体」と「客体」を理解してコントロールする事が出来るのです。このコントロールは使用者の使い方次第です。 
  

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