少しづつですが、綴ってゆきます。
ソクラテスの「良心」について、私が感じる所を記そうと思います。
「誰にでも、共通した良心を持っている」のような事をソクラテスは語っています。
photo credit: Allie_Caulfield via photopin cc
ソクラテスは古い哲学者です。逸話も調べて頂けると、「へぇ~」と感じる所の多い偉人です。
私がその内の中で「良心」について語ります。
ソクラテス死後、様々な学問、そして様々な社会が生まれましたが、「時は移り、所変われど、人類の営みは変わることはない(銀英伝)」のという言葉どうり、人の営みは変わりません。
(別の機会に、人の営み(文化の差異など)にも、触れたいと思います。)
私が、社会で生活させて頂く機会の中で感じる大きな事柄に、人間の気薄を感じ取る事が多いのです。(逆に、私などは煙たがれてしまうでしょう。)
私達は目には見えない「文化」の中で生活を行い、組織が形成され、生活を行う事が出来ています。その日々の生活の中で「個々」という存在の結びつきは何であるかを問われる時、それは「良心」であると言えるでしょう。
会社にいますと、とにかく「利益」を重視して活動しますので、まず必要な事は「マニュアル」のような物が一番になってしまします。「マニュアル」とは、例えば、日々会議室にこもり目標を設定して競争を続ける組織体のように感じてもらいたいです。
私が接する、そうした方々と話をする時、一切の「良心」を感じない事が多いのです。つまり、そこで人が「計画、目標、行動」等を熱弁していても、私には「何?」と感じる事が多いのです。「良心」が陰に隠れているのかもしれません。
逆に、「ポイント」を捉えて「計画、目標、行動」等を話す方々とは気持ちよく話をする事が出来ます。何が違うのでしょうか。
人が自分で考えるという事を放棄して、組織にただ参加している状態では、「ポイント」を発言する事が出来ません。マニュアルは必要な道具ですが、その道具に使われてはどうしたものでしょうか。( ´_ゝ`)
人が社会生活の中で、異なる他の方々と生活を共にするのに必要な最低限とは「良心」です。この「共通する理性」に目をふさいでしまいますと、他者に対しての「思いやり」も無くなってゆき、社会生活が窮屈なものになりませんか?
「全体」に乗っかっていれば楽ですが、個人である「自分」を見つめている人の方が私は好きです。例えば、何か問題が発生した場合、「全体」の人達は同じ考え方と発言で、結局は「恐怖」ばかり煽る傾向を感じます。
本心よりも、その組織に共通した言葉しか発言できないような感じです。
しかし、「良心」のある方々は、個々に別の解決策を持ち、まず結びつき(協力と行動)しあう傾向があると感じます。
私に「良心」はあるのだろうか。大切にしているだろうか。
お世話になった方より、私に贈っていただいた言葉を皆様に残します。
「どうぞ、ご自身をご自愛ください」
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