こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
今回は「日記カテゴリー」にて投稿したいと思います。
どうしたものか、人間はいつも、そして誰も同じ状況を好みます。
人間は、都合の良い場所に落ち着くものです。
今年で戦後70年を経過しようとしておりますが、今はまさに、この人間の都合の良い「精神」と「思考」を納めようとする傾向が目立つのです。
例えば「戦争観」ですが、今の自民党の中でも良く見かける光景です。
自分の「精神」と「思考」の良い居場所を選び、それを「正義」として捉えて、満足して進みます。
逆に「反戦運動」を展開する方々もおられます。
やはり、自分の「精神」と「思考」の良い居場所を選び、それを「正義」として捉えて、満足して進みます。
私は、これまで「中国、インド、パキスタン、アフガニスタン、ネパール、タイ、」などの方々と、若干の交流がございました。(天然石集めです。)
その中で、各国の人間の特徴を教えられました。
例えば、中国人が電車の中で平気で大声で電話したり、話したりするのは、マナーをしらないのではなくて、それが特徴なのです。
パキスタン人は、日本人のように「顔」を洗いません。「手」を下からすすぎます。
理由は「上」からこすったら「神」に失礼だからです。
インド人からしたら、どうでもいいだろうと言いたい訳です。
こうした方々と接してさせて頂いた事で、細やかですが人間を教えて頂きました。
今、この方達の頭の上に「爆弾が落ちる」と言われたら、すぐに逃げる事でしょう。
当たり前の事です。
普通は、当たり前の事であると思います。
しかし、自分の「精神」と「思考」の良い居場所を選び、それを「正義」として捉えて、満足して進んでいる方々の頭上に「爆弾」が落ちるとしたら、その「爆弾」から逃げるでしょうか。
「反戦運動」をされている方々が「弾圧」されたとして、その運動を止めるでしょうか。
「戦争観」 を「正義」と「責任」などの言葉でまとめる方々に「爆弾」が落とされたら、その運動を止めるでしょうか。
きっと、止めないはずです。
人間は、都合の良い場所に落ち着くものです。
今は、それが「主義」や「主張」として、居心地がありやすいのです。
ただ、だから見失って欲しくない現実は、「正義」や「責任」、「主義」や「主張」は「それはそれ」という事です。
この「それはそれ」という現実を理解しませんとなりません。
1959年7月15日にキューバの「チェ・ゲバラ」がお忍びで広島へやってきました。
そこで「原子爆弾」の残虐さを目の当たりにします。
「チェ・ゲバラ」は、こう言っています。
「なぜ、日本人はアメリカ人を問い詰めようとはしないのだ」とです。
私もそうなのです。どうしてアメリカ人は、とんでもない悲劇を理解して原爆を、人間が住んでいる人達の頭上へ落としたのかです。
とんでもない事ですが、多くの方は「戦時中の事」という言葉を使います。
ならば、「戦時中」という言葉をとって見て下さい。
すると、普通に「人間の頭上に原子爆弾を落とした」という言葉になります。
「戦時中の悲劇だから」ではないのです。「戦時中」という言葉を取ります。
「悲劇だから」という言葉が残ります。
つまり、「人間の頭上に原子爆弾を落とす事は悲劇なのです。」
これが真理であり、人間である「チェ・ゲバラ」が感じた事なのです。
「主義」や「主張」は大切な事ですが、この「主義」や「主張」が現実に発生している「頭上の爆弾」の脅威を、別の方便に変えてしまいます。
「正義」や「責任」、「主義」や「主張」は「それはそれ」という事なのです。
その為、私はこうした方々を嫌う傾向があります。
人間観がないのです。
「感謝」や「有り難さ」に先行して、「主張」の中に生きています。
実は、とっつき憎いのです。
ところが困ったことは、こうした主張が長々とイメージとして定着すると、自然となってゆきます。
頭の上に「爆弾」が落ちると言う現実を、実は理解できない方が多いと思います。
それは正常なことです。
ところが、非常識な世界が出来上がる場合がございます。
それが、「戦時中」であります。
つまり、「やった者勝ち」なのです。
そして、常識な世界ではありませんから「非常識」が蔓延する恐怖の世界になります。
そんな非常識の感覚を、持っている必要はありません。
頭の上に「爆弾」が落ちると言う現実を「戦時中」という「仕方ない」で済ませる非常識の感覚を引き継ぐ事はないのです。
頭の上に「爆弾」が落ちると言う現実は、「危ない」のです。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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